妄想小説家panのブログ。

素人の小説です。

われても末に逢はむとぞ思ふ⑪

それからしばらくして、渉が借りていた部屋を引き払うための片付けを手伝うことにした。

 

連絡を取るついでに、間宮も手伝いに呼んだ。

 

間宮は渉に会った時、強めに頭を叩いて「心配かけやがって」と怒った。

 

渉たちには子供もいなかったし、2人暮らしであまり物は多くなかったけど、時々ふと手を止めて渉が物思いに耽ることがあって、なかなか片付けは進まなかった。それでも、僕と間宮はそんな渉には気付かないふりをした。

 

気が済むまでそうしていればいいと思っていた。そうやって、全ての想いはこの部屋に置いていけばいい。

 

そう思って、ただ気長に見守った。

 

「お前らさ…仲直りしたんだ」

 

渉から離れたところで間宮が僕に言った。

 

「なんで?」

 

「高校の時さ、お前ら全然喋らなくなったじゃん」

 

「…うん」

 

「見てられなかったからね、あの時」

 

「どういうこと?」

 

「何があったか知らないけどさ、あいつはずっとお前のこと見てたからね。まぁ…なんか知らないけど仲直りして良かったよ」

 

だいたいの物は処分することにして、残った渉の荷物はそんなに多くはなかった。

 

「ありがとう、航平、間宮」

 

明日、引越し業者が来て実家に荷物を送るという渉を置いて、僕と間宮は渉の部屋を後にした。

 

もう夜も遅く、「送ってってやるよ」と間宮が言ってくれた。

パーキングに停めた間宮の車の助手席に乗り込もうとしてふと思った。

 

「なぁ、あいつ…あの部屋でひとりで大丈夫かな」

 

運転席でエンジンをかけて、僕の家をナビで調べていた間宮も手を止めた。

 

「…戻ってやれば?俺よりお前の方がいいと思うよ」

 

「そうする」

 

「なんかあったら言えよ」

 

「わかった…ていうか」

 

「なんだよ」

 

「間宮お前、案外いいやつだな」

 

「は?案外は余計だろ」

 

間宮の車が去っていくのを見送って、僕は来た道を戻る。

外から渉の部屋を見上げると、うっすらと街灯に照らされてベランダで煙草を吸う渉の姿が見えた。

 

「渉」

 

「なにしてんの?忘れ物?」

 

「泊めてよ、間宮に置いてかれた」

 

「嘘つけ。早くあがってくれば?」

 

部屋に戻ると、渉もベランダから帰ってくるところだった。

 

「お前、煙草やめろよ」

 

渉は黙って、僕に抱きついて「ありがとう、戻って来てくれて」と小さな声で言った。渉の柔らかい髪の感触と少しだけ残る煙草の匂いが鼻をくすぐる。

渉は少しだけ震えていて、僕はその背中を撫でた。

 

「外、寒かっただろ」

 

「温めてよ、航平」

 

僕の腕の中で照れて笑いながら渉がそう言ったのが可愛くて、ソファに押し倒して何度もキスをしながら、渉の髪と背中を撫でた。

 

この部屋で渉を抱くのは嫌だなと僕が言うと、渉は「なんで?もうここには何も無いよ…航平が帰ってきてくれたから、全部忘れた」と笑ったけど、すぐに真顔になって僕の顔をじっと見た。

 

「でも航平が嫌ならやめよう」

 

「じゃ、やめない」

 

「どっちだよ、めんどくせぇな」

 

渉の身体は前より痩せて、小さくなったような気がしたけど、僕に抱かれる時の敏感な反応や声は変わらなかった。

静かな部屋で、僕と渉の息と、声と、時々外を通る車の微かな音だけが響いた。

 

でも、ふとした時に、やっぱり渉が僕から視線を外して、どこかを見ているような、何も見ていないようなそんな目をした。

 

全部忘れるなんて、無理に決まってる。

 

僕は、それには気づかないふりをしようとしたけど、どうしても胸が詰まりそうで、我慢が出来なくて、渉の名前を呼んで僕の方を向かせる。

取り繕って笑おうとしながら、潤んだ目で「ごめん…また嘘ついた」と渉は言った。

 

「絶対、忘れさせるから」

 

僕が強がりながらそう言って、渉が頷いて目を瞑ると、渉の頬を涙が零れた。

 

 

 

翌日、まとめた荷物を引越し業者に引渡し、渉も実家に帰る途中、僕を送り届けてくれた。

 

渉がもうすぐ、しばらく休んでいた職場にも復帰することになって、また新しく住むところを見つけると言ったから「俺のとこ来る?」と言うと「狭いから嫌だ」と笑って

 

「ちょっとは、ひとりになってみるよ」と言った。

 

「本当は、ずっと一緒にいたい。毎日、一緒に起きて、ごはん食べて、一緒に眠りたい。でもそれだと、少しの離れた時間が不安になりそうで束縛しちゃうから駄目だな」

 

「お前、面倒なやつだな」

 

「可愛いだろ?」

 

「まぁな」

 

「バーカ」

 

渉は笑ってそう言い捨てると、僕を置いて去っていった。

 

 

 

 

その夜、夢を見た。

 

小学生の僕が漫画に憧れてバレーボールを始めた日。

 

いざとなると恥ずかしくて、母の背中に隠れていたあの日。

 

「一緒に行こう!おいで!」と渉が僕の手を強く掴んで、みんなの輪の中に連れていってくれたあの日の夢。

 

夢の中の僕は何故か、その純新無垢な笑顔が、いつか曇り、激しく傷つくことを知っていて、絶対にこの手を離してはいけないのだと強く思う。

 

これからきっと、何度も何度も振りほどこうとするこの手を決して離すまいと。

 

 

[おわり]

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

われても末に逢はむとぞ思ふ⑩

潮風が顔に強くあたって、砂が舞った。

 

僕は真っ直ぐ海を眺めていたけど、その砂が目に入りそうで顔を背ける。

 

その顔を背けた先にいるあいつは、舞い散る砂も強い風も気にしないで、ただ真っ直ぐ前を向いて、線の細い儚げな横顔を見せていた。

 

次の日の朝

 

 

全く、あの頃と同じように渉はそこにいた。

 

 

「何しに来たんだよ」

 

10年前のあの時は、もう少し怖い顔をして、生命力のある睨むような目をしていたけど、それよりは穏やかな視線で、覇気のない顔で、今すぐにでも消えそうに見えた。

 

「お前こそ何してんの?」

 

「散歩だよ」

 

「ジジイかよ」

 

渉は鼻でフフンと笑って、またあの時みたいに砂浜に飛び降りる。

 

「おい!危ない!」

 

でも今度は、しっかりと地面に足をつけて着地して、得意げな顔で笑って僕を見上げた。

僕もすぐに飛び降りたけど、今は少しの恐怖心があった。

 

「こわっ!」

 

「でも、ちゃんと立てたよ」

 

「あの時は怪我してたからな」

 

「違うよ」

 

「なにが?」

 

「たぶん、あの時も立てたよ。どうせ、不貞腐れて甘えてただけなんだよ。まだガキのくせに一人前に人生悲観した気でいてさ…馬鹿じゃないの?これからまだまだ辛いことなんかいっぱいあるのにさ」

 

また急に風が強く吹いて砂が舞い、渉が俯いて目を擦る。

 

その仕草が一瞬、泣いているようにも見えた。

 

「大丈夫か、渉」

 

「なにが…」

 

「いろいろと」

 

「今度は誰に何を聞いたんだよ。どいつもこいつも人のプライバシー喋りすぎなんだよ」

 

「心配してんだよ」

 

渉は足元の砂を足先で少し均して、砂の上に足を伸ばして座った。

 

「…俺さ、わかってたんだ。他に男がいるのずっと。でも、どうせただの浮気だろ?って思ってたけど…段々、彼女自身が誤魔化しきれないくらいにあっちに傾いてったんだ。不自然な外出、電話、隠す気ないのかってくらい…」

 

渉は目の周りを真っ赤にしながら、唇は薄く呆れたような笑みを浮かべて話す。

 

「腹が立つより…意地になって、何がなんでも取り返してやりたくて必死になった。彼女の機嫌を損ねないように嫌われないように、こっちを見てくれるように…外出も電話も絶対に詮索したり咎めたりしない、記念日には彼女の望むことをしてあげる。…なんて、今思ったらバカバカしいんだけど」

 

「そんなに好きだったんだ」

 

「好きだったから一緒になったんだろうけど、最後は意地だね。でも疲れた。めっちゃ疲れた。あーもう嫌だ!無理!って。でも…ひとりになるのが嫌だった…誰か一緒にいて欲しかったんだよ」

 

そんな時に、僕に再会して、初めは憂さ晴らしに揶揄ってやろうと思ったと渉は言った。

 

「でも、俺ってやっぱダメだね。好きになったら尽くしちゃって、呼ばれたら尻尾振って走ってって…こんなこと続くわけないのに」

 

結婚記念日だったあの日、忘れていたなんてやっぱり嘘で、いつものように、喜んでもらえるように、ちゃんとプレゼントも用意して、急いで家に帰ろうとしていたけど、それでも何も知らずに渉に甘えた僕のところに来てくれた。

 

すぐに帰るつもりだったけど、帰らなきゃいけないと思っていたけど、それでも僕のために一緒にいてくれた。

 

「航平のためだけじゃないんだよ…航平の腕の中にいたら、もういいや、もうあんなことやめちゃえって思ったんだ。帰って謝ったけど、それはただ彼女が怒っているのを宥めるためだけで、用意したプレゼントも帰りのコンビニでゴミ箱に捨てた。航平とも終わっちゃったし、もういっそひとりが楽でいいやって」

 

「ごめん、やっぱ俺のせいだね」

 

「違うよ。航平がきっかけかも知れないけど、いつかはそうなってたんじゃないかな。俺が引いた途端に、坂道を転げ落ちるみたいに終わって捨てられた。今までの俺の努力なんだったの?ってくらい。…でも、ひとりは楽じゃなかったよ、甘かったな。めちゃくちゃ寂しくて辛かった…俺って無意識に人に依存しちゃうんだな。ひとりが無理なんだよ、めんどくさいやつだな」

 

渉は大きくため息をついて「誰のせいでもない、自分のせいで自分で病んでたら世話ないよな」と笑った。

 

「俺はさぁ…渉がちゃんと幸せに暮らしてるんだと思ってた。ていうか、思い込もうとしてたよ。終わらせて良かったんだって思いたかった」

 

本当は、こんなに苦しんでいたことを考えもしなかった。

 

僕のことなんか忘れて幸せでいてくれると思いたかった。

 

そうじゃなきゃ、自分が救われなかった。

 

「俺とやり直す?渉」

 

渉は、その言葉にこっちを見上げて呆れたような顔をして見せる。

 

「お前さ、人の話聞いてた?」

 

「聞いてるよ」

 

「俺またお前に依存しちゃうから駄目だってば」

 

「なんで?すればいいじゃん」

 

「は?」

 

「お前のしたいようにすればいいじゃん」

 

「はあ?意味わかんねぇわ」

 

苛立ちを顔に表して、砂を払って立ち上がる渉の前に立ちはだかって、両手を広げる。

 

「渉、会いたかった」

 

僕を睨みつけた渉は、眉間に皺を寄せて食いしばるような顔をしていたけど、そのうち俯いて、子供が泣く時みたいに顔を腕で覆った。

 

渉が咄嗟に逃げないようにそっと近づいて、渉を両腕で抱きしめる。頭頂部の柔らかい髪の感触と匂いが鼻をくすぐった。

 

懐かしい匂いがした。

 

最初に、僕のことを好きだと言った時の匂いがした。

 

「俺に尽くしてよ、裏切らないから」

 

「…嘘だ」

 

「嘘じゃないようにするから一緒にいてよ…渉」

 

渉の髪の匂いに、感情を揺さぶられて、会えなかった間の想いが溢れて、渉を抱きしめる腕に力がこもった。

 

「航平、お前さ…」息が出来なくて、渉は少しだけ僕を押しのけた。

 

「なに?」

 

「なんか足りないよ、いつも」

 

渉の言いたいことはわかってた。

 

想っていたのに、一度も言葉にしていなかった。

 

「愛してるよ、渉」

 

自分で言えと言ったくせに、渉はその言葉が合図だったように、声をあげて泣いて、僕を抱きしめ返した。

 

「やっと聞けた…」

 

泣きながら、絞り出すようにそう言った。

 

「ほんとにお前、めんどくさ…」

 

「だってやっとだよ…やっとこっち向いてくれた…」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

われても末に逢はむとぞ思ふ⑨

渉と別れてから、すぐに季節は夏を迎えた。

 

その夏は、今世紀最高だとか、史上最高だとか、毎年同じフレーズで騒いでいるような気がするけど、そう言いたくなるくらいの激しい暑さだった。

 

でも、そんな夏もあっという間に過ぎて、また少し夜が肌寒くなった頃、一通の葉書が届く。

今時、葉書なんて珍しいと思いながら、その日はずっと他の郵便物と一緒にテーブルに置いたままにしていた。

 

一日を終えて、ベッドに寝転んでからそれを思い出して、テーブルに手を伸ばす。

 

それは、高校の同窓会の知らせだった。

 

とてもじゃないが、気がすすまない便りだ。

 

3年では渉とはクラスが離れたから、行っても会うことはないだろうし、どちらにせよあいつもきっと来ない。

お互い、あの頃のことは思い出したくないのは同じだ。

まだ子供だった僕たちの、最初の人生の挫折。

今となっては小さなことで、挫折だとも言えないようなことだったけど、あの頃の僕達は充分に傷ついた。

 

それを懐かしんで笑えるところまで、まだ僕は成長していない。

 

それに、差し出し人は渉の親友だった間宮だった。

 

クラスが離れてからも、この2人は卒業するまで仲が良かった。今はどうか知らないけど、何も知らないだろうけど、会えば嫌でも渉の顔を思い出す。

 

葉書を枕元に置いて、携帯を充電器に差し込む。相変わらず、そこにライターを置いたまま捨てられないでいる。

 

「私、部長と別れたんですよ」

 

ある日、菜々美に昼休みに誘われて、昼食をとる店を探す最中にそう告げられた。

 

「そうなんだ」

 

天気が良かったし、話す内容も深刻そうに思えたので、すぐ傍のコンビニで簡単に食べられるものを買って、公園のベンチに座った。

 

「はいこれ、瀬川さんの」

 

菜々美の買ったペットボトルのカフェオレと、甘い菓子パンを渡す。

 

「甘いの好きだね」

 

「そうなんです、甘いのと甘いのでも大丈夫です」

 

菜々美は今日の天気のように穏やかに明るく笑ったけど、いつまでもそのパンの袋を開けようとしないから、僕がそれを奪い取って袋を開けてまた菜々美に返す。

 

「あのさ、辛いかもしれないけどちゃんと食べなきゃ駄目だからね」

 

「…はい」

 

「1口ちゃんと食べたら聞いてあげるよ」

 

「はい」

 

小さくひと口パンをかじって、詰まりそうになながら飲み込んで、菜々美は話し始める。

 

「部長の奥さんがね…」

 

「うん」

 

「倒れたんです、病気で」

 

「そういえば、そう聞いたかも」

 

「その時に、会ってたんです…私たち。部長の携帯に連絡があって、慌てたような顔をしたから何があったのって聞いたら何でもないって言って、私と一緒にいてくれたんです…」

 

そこで言葉に詰まった菜々美に僕は聞いた。

 

「…それで後で問い正して知って、喧嘩になったとかいう話?」

 

「…そうです」

 

「なんで嘘つくんだって?」

 

「はい…なんでわかるんですか」

 

僕はそれに答えずに、菜々美に話を続けさせた。

 

「私、何をしてるんだろうって思って。そんなの全員傷つくだけじゃないですか。誰も幸せにならないじゃないですか…だから別れようって言って…ちゃんと別れました」

 

「後悔してないの?」

 

「してません。すごく寂しいし悲しいし、ずっと泣いてますけど…後悔はしてないです。でも…誰かに聞いてもらいたかったんです。すみません」

 

「偉いね、瀬川さん」

 

「偉い?」

 

「うん、偉い」

 

「…そうですかね…」

 

菜々美は少し嬉しそうな顔をして、ふた口めのパンを口に入れた。

 

「瀬川さん、いい子だから大丈夫だよ」

 

「ありがとうございます。航平さんは?」

 

「なにが?」

 

「聞いて欲しいことないですか?」

 

「…ないよ、別に」

 

「そうですか。いいですけど…ずっと悲しそうですよ」

 

「ずっと?」

 

「はい、いつもずっと」

 

菜々美は僕の隣に置いたコンビニの袋から、僕の買ったサンドイッチを出して封を外して「辛くてもちゃんと食べなきゃ駄目ですよ」と、僕に手渡した。

それを受け取って、今すぐにでも泣き出しそうになっていることも、きっと勘づいたはずだったけど、それ以上は彼女は何も聞かなかった。

 

 

 

同窓会の返事を迷ったまま、僕はすっかり忘れていて既に返事の締切が過ぎていた。その催促をして来たのは、川田だった。

川田とも高校卒業以来会ってはいなかったから、川田も携帯の番号が変わっていたら諦めようと思っていたらしい。

 

「来いよ」

「うーん…めんどくさい」

「めんどくさいって、なんだよ」

 

特に断る理由も思いつかず、半ば川田に押し切られる形で出席の返事をしたことを当日の朝ですら後悔していた。

 

「めんどくさいな…」

 

前日に実家に帰って、特にすることもないから夜は早く寝てしまって、無駄に早起きをした。

窓を開けると、微かに潮風が香って、誘われるように外に出て歩き出す。波の音がすぐ近くに聞こえた時、堤防を見上げてあの日のことを思い出してしまった。

 

悩んでいるような、怒っているような、物憂げな目をして海を眺めていた渉と、隣でその顔を眺めていた僕の姿が、まるでまだそこにあるかのように思える。

 

あの時に帰れたらなんて言うけど、あの時じゃもう遅かったんだな、一体どこまで巻き戻したら良かったんだろう…そんなことを考えた。

 

 

 

同窓会は、成人式以来の再会にそれなりに盛り上がっていた。川田は、相変わらず生真面目そうな顔をして説教じみた話をした。

 

そんな中、高校時代より更にチャラくなった間宮と目が合って、反射的に僕は目を逸らす。

 

「おい」

 

僕の名前も覚えてなんかいないだろう間宮が、僕の肩を掴んで声をかけた。

 

「なに?」

 

「お前さ…渉と会ったりすることある?」

 

「ないよ」

 

「そうか…」

 

「なんで?」

 

「俺もちょっと前までは一緒に遊んだりしてたんだけど、最近、全く連絡取れないんだよ」

 

「なんかあった?」

 

「あいつ、ちょっと前に離婚したんだよ」

 

「え…」

 

「ひとりになって楽だわって言ってたんだけど、そこから全く連絡取れないからちょっと心配してんだよな」

 

「そうなんだ…でもごめん、俺は知らない」

 

「そうか…まぁ、あいつだったら大丈夫だと思うんだけどね」

 

「なんで離婚したのか知ってんの?」

 

「あいつ、そういうこと言わないからな…」

 

思いがけない話を聞いて、動揺した。

 

二次会の誘いを断って、ようやく解放されて実家へ帰ろうとすると、酒が飲めない川田が車で近くまで送ってくれた。

 

「ここでいいのか?」

「いいよ、ちょっと酔ったから歩きたい」

 

高校生の時にいつも降りていたバス停で止めてもらって、波の音だけが聞こえるすっかり暗くなった道を、少ない街灯を頼りに歩く。

 

前から懐中電灯の揺れる明かりと誰かの足音が近づいて来て、僕は道の端に避けた。

 

「…なにしてんの」

 

すれ違いざまに突然、声をかけられて懐中電灯の灯りを向けられ目が眩む。

 

「久しぶり」

 

目の前で、渉が笑っていた。

 

一瞬、夢を見たのかと思った。

 

「お前こそ、何してんの」

 

「見ての通り、犬の散歩」

 

渉が目線を落とした先で、首輪につながれた雑種の子犬が尻尾を振っている。

 

「拾ったんだよ、ちょっと前に。実家で飼ってもらってる。航平は?なにしてんの」

 

「同窓会だった」

 

「そうなんだ」

 

「間宮が心配してた」

 

「あー…なんか聞いた?」

 

「なんで離婚したの」

 

「関係ないじゃん。お前のせいじゃないから大丈夫」

 

「なんで連絡してやらないの?間宮に。心配してるよ」

 

「うるさいな、俺には俺の事情があるんだよ。じゃーね」

 

渉が一方的に話を終わらせて通り過ぎようとするのを、腕を掴んで止めた。

 

「触んなよ」

 

「渉…どした?」

 

「なにが」

 

暗くてあまりよくわからなかったけど、腕を掴んで初めて気づく。

 

「なんでこんな痩せてんだよ」

 

「だから、関係ないだろって!触んなよ!」

 

「関係なくないだろ」

 

「勝手なこと言うなよ、お前がやめようって言ったんだろ!お前が終わらせたんだろ!」

 

渉は僕の手を振りほどいて「声掛けなきゃ良かったよ」と背を向けた。

 

「渉!」

 

「ごめん…違った。終わらせたの俺だったね…もう会わないって言ったの俺だった」

 

振り返りもせずにそう言って、暗闇に消えていく渉の背中を僕は追えなかった。

 

会いたかった。

 

 また、何も言えなかった。

 

会いたかったんだって。

 

家に帰ると、ちょうど風呂上がりの母に玄関で会った。

 

「おかえり、航平」

「ただいま」

「楽しかった?」

「まぁね…」

 

「そう言えば…渉くんは?来てた?」

 

「あいつクラス違ったもん、来てないよ。…さっきそこで会ったけど…」

 

「そうなの…元気そうだった?」

 

「まぁ…ていうか、なんで?なんかあった?」

 

「まぁ、とりあえず入りなさいよ」

 

リビングで、母が僕に珈琲を入れてくれて、外は少し肌寒かったから冷えた指先を熱いカップで暖めた。

 

「それで、渉がなに?」

 

「あんまり詳しく聞けなかったけど、離婚してから鬱っぽくなっちゃったって。それでこっちにご両親が連れて帰って来たらしいわよ」

 

「それ、本当に?」

 

「本当。渉くんのお母さんに聞いたんだから。あなた達は途中から仲良くなくなっちゃったみたいだけど?それもずっと心配してたんだから」

 

「なんで離婚したのかな」

 

母は、自分の珈琲を持って僕の目の前に座り、言いにくそうに「ずっと浮気されてたらしいよ」と言った。

 

「浮気されてた?」

 

「そう。ずーっとだって。可哀想にね」

 

母と話した後、自分の部屋に戻って渉に電話をかけてみた。

 

僕の携帯は相変わらず、画面が大きく割れたままだ。

でも、間宮が言っていたとおりに携帯は呼び出しすらしなくて繋がらなかった。

 

僕は勝手に、渉は幸せなんだと思ってた。

 

所詮、帰る場所のある奴の火遊びに付き合わされているんだとすら思おうとしてた。

 

そんなに苦しんでいたのに、少しも気づいてやれなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

われても末に逢はむとぞ思ふ⑧

朝になって、カーテンの隙間から漏れる光に目を覚ますと隣に渉はいなかった。熱はすっかり下がったみたいで頭も軽くて、思い切り背伸びをした。

洗面所で顔を洗っていると、玄関のドアが開いて携帯を手に持って渉が帰ってきた。

 

「…大丈夫だった?」

 

「うん、なんでもない。航平こそ連絡してやったら?」

 

「俺はいいよ。別に彼女でもなんでもないんだから」

 

渉はまた携帯をテーブルの隅に置いて、ベッドを背もたれにして膝を抱える形で座り、テレビをつける。

僕がその隣に座って渉の肩を抱き寄せると、少し見上げるような形で「なに?したいの?」と笑って言った。

 

「ていうか…」

 

「なに?」

 

「渉のやらしい声が聞きたい」

 

「なにそれ…風邪うつったら嫌なんだけど」

 

渉を押し倒して、耳の後ろから首筋までを撫でて耳を舐めると、すぐに渉は堪えきれずに色味のある声を出した。

 

「もっと声聞きたい」

 

渉の身体は感じやすくて、僕はその敏感な反応と声がたまらなく好きで、気持ちが昂る。

 

「渉…名前呼んで」

 

渉は身体を反らせて、後ろから抱く僕の首に手を回して耳の傍で何度も吐息混じりに名前を呼んだ。その声で名前を呼ばれるのが気持ちよくて、首に回された手を握ると、渉が強く握り返して爪がくい込んだ。

 

「航平…愛してるよ…」そう言うと、渉は身体の力を抜いて床に倒れ込む。僕もその背中にしがみついて、乱れた呼吸を同じように整えた。

 

僕を少し押しのけて、渉は身体の向きを変えて僕の顔を撫でる。

 

「やらしい声してた?」

「してた」

「意味わかんないんだけど」

 

渉は照れたように、幼い顔をして笑った。

 

「やば…しんどい」

 

「馬鹿じゃん、ちょっと熱下がったからって」

 

「だってもう帰る気だろ」

 

「…なんで?」

 

「電話…なんだった?」

 

僕がそう聞くと、僕の体を押しのけて脱ぎ捨てた服を引き寄せる。適当に答えればいいのに、黙り込んだまま起き上がってTシャツに袖を通し、煙草を掴む。

 

「ここで吸っていい?」

 

「いいよ。灰皿ないけど」

 

「持ってる」

 

ハンガーにかけた上着のポケットから、携帯用の灰皿を取り出して、僕の隣に座る。

 

もう一度、昨日からの電話がなんだったのか聞きたかったけど、きっとこのまま答えずに流されるんだろうと思っていた。

でも、煙草を半分くらい吸ったところで渉は火を消して「昨日、結婚記念日だったんだってさ」と答えた。

 

「は?ヤバいじゃん」

「ヤバいね…忘れてた。めっちゃ怒ってた」

 

さっき消したばかりなのに、渉はもう1本新しい煙草を出して、火をつけずに口に咥えた。

 

「嘘つくなよ。忘れてたなんて」

 

「嘘じゃないよ」

 

「嘘だよ。帰れなかったんだろ?俺が呼んだから」

 

「…違うよ」

 

「俺がいたから電話も出られなくてさ」

 

「違うって」

 

「そうやってまた嘘ついてさ、溜め込んで、またいつか爆発するんだよ」

 

お前に何がわかるんだよ!辞めたかったんだよ!

 

昔そう言って、僕に掴みかかって叫んだあの時の渉の声を僕はまだ忘れていない。

 

渉は煙草に火をつけようとしたのをやめて、しばらく僕の顔を睨んで、手に握ったライターを僕の方に投げた。ライターは、肩をかすめて壁に当たった。

 

「なんなんだよ…航平、お前さ。人のこと好き勝手に弄びやがって偉そうに」

 

渉の言ったことに、返す言葉は浮かばなかった。

 

ずっと昔から、渉は僕のことを好きだったのに、突き放しておいて、放置しておいて、自分がその気になったら利用する。

言い訳しようのない本当のことだ。

 

僕はまた、突き放すべきだった。

 

僕のことを忘れて、結婚したと知った時点で、近づいてやるべきじゃなかった。僕への気持ちが再燃することを止めてやるべきだった。

 

僕が、こんなに渉のことを好きになる前に、離れるべきだった。

 

「そうだな…ごめん、悪かった。とりあえず…帰って謝れよ」

 

渉は吸うのをやめた煙草を箱に戻そうとするけど、手が震えてうまく戻せなくて、そのまま手のひらで握り潰して、その握った手をテーブルに叩きつけて、苛立ちを表す。

 

「…わかったよ、帰る」

 

そう言って立ち上がって、僕が貸した部屋着を脱いで、着てきた仕事用のスーツに着替えた渉は、テーブルの上の携帯と車の鍵を掴んで

 

「もう、呼ばないでくれよ」

 

と、言い捨てた。

 

「…なにそれ…もう会わないってこと?」

 

「もう嫌なんだって…都合よく呼ばれて利用されて、誰かの身代わりかも知れなくても、それでも会いたいから飛んで行ってさ…ちょっとくらい無理してもって思ってさ…だって、やっと振り向いてもらえたんだよ…だから、馬鹿みたいに言いなりになるに決まってるだろ…」

 

「そんなんじゃないよ、俺は渉に会いたいから…」

 

「信じられるかよ!もう、嫌なんだよ!自分にうんざりするんだよ!!!」

 

渉の叫び声が裏返る。

 

あの時と同じだ。

 

大好きだったバレーが嫌になって、苦しくなって、辞めたくて、でもいつも楽しそうに振舞って、自分を押し付けて騙し続けて、最後には自分で自分の心も身体も壊してしまった。

 

あの時と、まるで変わっていない。

 

それでも、まだ自分が悪いと思っている。

 

 自分が悪いと言い続ける。

 

「渉、いいってもう…やめろって」

 

顔を手で覆って、俯いて肩を震わせている渉がものすごく小さく見えて、思わず抱きしめたくて手を伸ばすけど、ぐっと力をこめて堪える。

 

「もうやめよう…このままだったら、お前が壊れちゃうよ」

 

渉はその言葉に、一瞬だけ声をあげて泣いた。

 

 

渉が出ていった後、頭が痛くて、気分が悪くて、床に座り込んだ。手をついた床に違和感があって、その手をどかすと、そこに渉が投げたまま置いていったライターが落ちていて、ただの使い捨ての安っぽい物だったけど、僕はそれを握りしめて泣いた。

 

風邪のせいかも知れないけど、意識が朦朧とするくらい、長い時間、泣いていたような気がする。

 

渉を傷つけ続けたこと。

 

渉を失うこと。

 

渉に僕の本当の想いが伝わらなかったこと。

 

渉を愛してたのに、そう言えなかったこと。

 

全部が後悔ばかりだ。

 

それでも、あいつは泣いていたけど無事に家に帰っただろうかとか、ちゃんと謝っただろうかとか、許して貰えただろうかとか、そんなことをずっと考えてしまう。

 

また熱が上がってきた気がして、這うようにベッドに寝転んだ時、枕元の携帯が鳴った。昨日、何回か電話をくれていた瀬川菜々美からだ。

 

無意識に握りしめたままの渉のライターを代わりに置いて、携帯を手に取る。

 

「もしもし…昨日ごめん、電話くれてたのに出られなくて」

 

「いえ、こちらこそすみません。仕事のことで聞きたいことがあったんですけど…」

 

「本当?ごめんね、なんだった?」

 

「代わりに片野さんに聞いたので大丈夫です。片野さんに聞いたら、体調悪くてお休みだったみたいなのにすみませんでした」

 

「いや、いいよ…解決したんなら良かった」

 

「航平さん?」

 

「ん?なに?」

 

「大丈夫ですか?」

 

「ちょっとまだ熱あるかな…ていうくらい」

 

「違います」

 

「え?」

 

「泣いてません?」

 

「…泣いてないよ」

 

その週末は、一歩も外に出る気にもならなくて、部屋を思い切り掃除した。ソファーや、テーブルの配置も変えて、部屋に残る渉の記憶を消すみたいに、何もかも変えた。

 

途中、ここに渉が座っていたとか、ここで煙草を吸っていたとか、笑っていたとか、ほんの短い間のことだったのに、片付けても片付けても溢れてきて、何度も涙ぐむ。

 

我ながら情けないと思う。

 

往生際が悪いと思う。

 

それでもどうしても、最後に僕に抱かれた時の渉の声が忘れられなくて、愛してると言った言葉に答えてあげられなかったのが悔しい。

 

渉は、誰かの身代わりでもいい、利用されてるだけでもいいと言ったけど、それは僕も同じだった。

 

なのに、なんで我慢できなくて、電話の内容なんて聞いてしまったんだろう。

 

変な嫉妬なんてしないでいれば、まだ少しは一緒にいられたはずなのに。あいつは僕の愛情を疑いながらも一緒にいてくれたはずなのに。

 

自分で別れを切り出しておいて、これからもこうやって情けなく後悔するんだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                                                                                                                                                                                                                                          

 

 

 

われても末に逢はむとぞ思ふ⑦

無機質な、電話の音と、キーボードを叩く音が響く中、その声は僕の頭上から柔らかくおりて来た。

 

「航平さん…ちょっといいですか」

 

僕はその顔も見ないで「なに?瀬川さん」と答える。

 

「ちょっと…時間ください」

 

「どのくらい?」

 

「…30分…いえ、10分でいいです」

 

腕時計を見ると、もうすぐ昼休みになる時間だったので「お昼、一緒に食べに行く?」と、そこでようやく菜々美の顔を見上げた。僕が顔を上げたからか、菜々美は少しホッとした顔をして「…はい」と頷いた。

 

 

「航平さん…昨日、見ましたよね」

菜々美は、運ばれてきた食事に手をつけずにようやく本題を切り出した。

 

「見たよ、修也も」

 

「…ですよね」

 

「別に俺、誰にも言わないよ」

 

「…ありがとうございます」

 

「あんなとこ、誰が見てるかわかんないんだから、もうちょっと待ち合わせ場所考えなよ」

 

「はい」

 

「それだけ?だったら、早く食べなよ」

 

我ながら、少し冷たいんじゃないかとは思っていた。

 

「…軽蔑しますか…」

 

震える手で箸を取りながら、菜々美は小さな消えそうな声で聞く。

 

「…まぁ…正直に言うとね」

 

「ですよね」

 

「悪いけど…俺、優しいこと言ってあげられないからね。なんて言って欲しか…」

 

そこまで言って、菜々美の瞬きが多くなって今にも泣きそうな顔を堪えているのに気づいて、言葉を飲み込む。

 

「ごめん、言いすぎた」

 

「そんなことないです…その通りです。航平さんに優しいことを言ってもらって、自分のやってることは悪くないって少しでも思おうとしてたと思います」

 

「ごめん、本当に。八つ当たりだった」

 

「八つ当たり?」

 

「…うん。確かに昨日はショックだったよ、瀬川さん見かけた時は。いい子だなって思ってたし。でも、俺が瀬川さんのこと軽蔑するような立場じゃないんだよ。ずっと俺の方が最低な人間だからね」

 

「何かあったんですか?航平さん」

 

「…まぁ、誰でもあるだろ?人に言えないことって」

 

「そうですね、すみません」

 

「だから、俺は君のことは助けてあげられない。ごめんね。自分のことで精一杯」

 

「はい…」

 

菜々美はやっと、慌てて食べ物を口に運び始めたけど、なかなか喉を通らない様子だった。

 

「慌てなくていいよ、でもちゃんと食べなよ」

 

「はい」

 

「辛いね」

 

「…航平さんも?」

 

「そうだね」

 

結局、菜々美は頼んだものを半分残して箸を置いた。

 

 

 

 

「お前さ、今度は俺を母ちゃん扱いすんなよ」

 

熱を出して僕が寝込んでいるベッドの脇に座って、渉は買ってきたスポーツドリンクのペットボトルのキャップを開けて、僕に差し出した。

 

「起きれる?」

 

「うん…」

 

「熱出たから来てとかさ、何様なの?」

 

「来てくれたじゃん」

 

「言っただろ、どうせ呼ばれたら来るって。ほら、早く飲んで」

 

僕にペットボトルと薬を渡して、渉は立ち上がってキッチンに向かう。

 

「買ってきた残り、冷蔵庫入れとくからちゃんと飲めよ」

 

「帰るのかよ」

 

「さぁね…とりあえずそれ飲んだら寝たら?」

 

冷蔵庫のドアを静かに閉めて、またさっき座っていたところに戻り、薬の袋とペットボトルを受け取って、僕の額に手を当てた。

 

「…いてあげるから。明日は休みだし」

 

「いいの?」

 

「どっちだよ」

 

渉の手が冷たくて気持ちが良くて、自然と瞼が閉じる。

 

熱のせいか、重くて嫌な夢を見たような気がして、ふと目を開けると、ベッドのすぐ傍のテーブルで手元だけを仄かに灯りで照らして、眼鏡をかけて本を読んでいる渉の姿が見えた。

 

さっきは、仕事帰りのスーツ姿だったのが黒いTシャツに変わっていた。

 

僕の動く気配に気づいたのか、眼鏡をかけたままベッドにもたれて、こっちを振り返る。

 

「寝られた?」

 

「今、何時?」

 

「…12時かな。勝手に風呂と着替え借りたからね」

 

「いいよ。渉、寝ないの?」

 

「寝るよ。でもその前に外で煙草吸ってくる」

 

「いいよ、そこで吸えば?」

 

渉は立ち上がってテーブルのタバコを握ると、僕の枕元を指して「何回も電話かかって来てたよ。かけ直せば?」と不機嫌に言って、部屋を出た。

 

枕元の携帯に手を伸ばして見ると、僕が眠ったくらいに着信が2回ほど残っていて、どちらも瀬川菜々美からだった。

もう日付も変わってしまったから、かけ直すのは気が引けた。

 

その代わりに渉の携帯を鳴らしたけど、テーブルの隅でそれは鳴り出した。

仕方なくベランダに出て、下に向かって少し遠慮がちに渉を呼んだ。

少し、寝る前よりも身体が軽くなった気がする。

 

「渉、そこにいる?」

 

煙草を口に咥えて、見上げる渉の姿が見えた。

 

「帰ってこい」

 

しばらくして、あからさまに不貞腐れた顔をして渉は部屋に帰って来て、ベッドに座っている僕の隣に勢いよく座って膝を抱えた。

 

「なんだった?電話」

 

「知らない。もう遅いからかけ直してないよ」

 

「そっか、そうだな」

 

「誰?て聞きたい? 」

 

渉は「見せて、携帯」と手を伸ばした。

 

「いいよ」

 

「スタバ行ったんだ」

 

「なんで?」

 

「キモいアイコン」

 

「お前にヤキモチ妬かれる筋合いないけどな」

 

携帯を取り返して、枕元の充電器にセットしてベッドから降りる。

 

「ちょっと元気になったし風呂入る。寝てていいよ」

 

渉は返事をせずにベッドに潜り込んで、背中を向けた。

 

僕が浴室から出ても、テーブルの上の仄かな明かりに照らされた渉の背中は形を変えていなくて、眠ってしまったのかと顔を覗く。寝顔を隠している腕をどけると、長い睫毛の瞼が少し動いた。

 

「寝たの?寝たふりしてんの?」

 

「…寝てんだよ」

 

「そっか、寝てんのか」そう言って後ろから抱きしめると、渉が「まだ熱いじゃん」と腕を掴んだ。

 

「寝ろよ、また熱あがるぞ」

 

「うん、このまま寝るよ」

 

「甘えんな」

 

そう言いながらも、渉はそのまま動かずにいてくれた。テーブルの上の渉の携帯が鳴っているのに気づいていたけど、僕は渉を抱きしめる腕を緩めなかったし、渉も聞こえないふりをする。

 

こんな時間に遠慮なく電話をかけてくる相手なんて決まっていたから、本当なら僕は渉を離してやらないといけなかったし、渉が離せと言えばそうしたけど、渉が僕のこのくだらない嫉妬心を受け入れてくれたから、僕はそれに甘えた。

 

明日になれば、違う人のところに帰ってしまうから、今だけは許して欲しいと、心の中で顔も知らないその人に詫びた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

われても末に逢はむとぞ思ふ⑥

思っていた通り、その次の日の修也のシャツやネクタイの色も、雪乃のブラウスやスカートも、昨日とまるっきり一緒だった。

 

結婚記念日の次の日に家に帰らないで浮気相手と外泊なんて、呆れたものだと思う。

 

「こっちが見てて困っちゃいますよね」

 

菜々美も呆れ返った顔をして、2人を見比べながら小さな声で言った。

 

「昨日ご馳走さまでした」

「お腹痛くならなかった?」

「なりました」

「ほんとに?」

「ていうか、早く携帯直した方がいいですよ」

 

菜々美が笑う度、今の僕の重い気持ちが少しだけ溶けていくような、そんな気がした。

 

携帯の画面は斜めに大きく亀裂が入っていて、所々がモザイクのように細かく割れていた。ドアの向こうから聞こえた渉の高笑いが、耳の傍で聞こえた気がした。

 

なのに

 

どうして僕は、この割れた携帯を修理に出すのを躊躇うんだろうか。

 

そして、どうして渉の電話番号を消そうともせずにいるんだろうか。

 

いつまでも、こうやってあいつに囚われているわけにはいかないのに。

 

「お前、まだ直してないの?」

 

仕事の帰り道、片野と一緒になり駅まで歩いていた時、僕が手に持っていた携帯を見て片野が呆れて言った。

 

「直すよ」

 

「ちょっと待った…」

 

急に片野が歩くのを止めて、僕の肩を掴んだ。

 

「なに?」

 

「あれ、瀬川じゃん」

 

車道を挟んだ向こう側。

 

黒い高級車が停まって、その助手席に周りを気にしながら乗り込もうとした菜々美と、目が合った気がした。

たぶん、目が合ったと思ったけどすぐに目線を外されて、乗り込んだ車と共に去っていく。

 

「あの車、誰?」僕が言うと片野が「噂は本当だったんだな」と答えた。

 

「噂?」

 

「うちの部長と不倫してるってさ」

 

漠然と

 

ただ、漠然と

 

とてつもなく汚れたものを見たような気がした。

 

片野と雪乃のことは、呆れながらも笑って許せるのに、それが許せなくて見ていられなかったのは、間違いなく僕の気持ちが菜々美に傾いていたせいだ。

 

あの少し強引な甘え方と、天真爛漫な笑い方をする菜々美を、勝手に清らかなもののように思っていたから、今、急に正面から思い切り腐った泥水を浴びせられたような、そんな気がした。

 

 

「やっと俺に会いたくなったの?」

 

「違うよ」

 

「じゃ、なんで電話なんかして来た」

 

帰りに見たあの一瞬の光景が頭から離れなくて、何度眠りかけても眠れなくて、誰かと話をしたかった。

 

「誰かと話したかった」

 

「俺じゃなくてもいいだろ」

 

「そうだな…別に誰でもよかったんだよ」

 

「それで俺にかけてくるんだから、よほど弱ってんだね」

 

「…たぶん」

 

「なんだよ…本当に弱ってんじゃん」

 

「渉」

 

「なに?」

 

「来てよ…」

 

しばらくの間、沈黙が続いて

 

僕はやっと自分が言ったことを冷静に把握し始めて、渉に言ったことを取り消そうと、取り繕おうと言葉を探し始めた時、渉が低い声で言った。

 

「行ってやってもいいけど…意味わかってんの」

 

「わかってるよ」

 

電話の向こうで、ふふっと鼻で笑う声がして

 

「俺を都合のいい愛人扱いするんじゃねーよ」

 

と言って電話は切れた。

 

 

それから、1時間ほどした頃には

 

この前とは逆に、僕が渉をベッドに押し付けて、渉にキスをして舌を絡めていた。

 

「好きな女が他の男に抱かれてんのが悔しくて、俺で済まそうとしてるんだ…最低だな、お前」

 

渉はまた、挑発するような笑い方をする。

 

そもそも、先に求めてきたのは渉の方だ。だけど、どうしてか僕はそれに素直に応じてしまった。

 

「うるさい」

 

「俺はいいよ。航平が抱いてくれるんならなんでも」

 

そして、渉がしたように渉の身体を撫でて、舌を這わせて絡める。

 

不思議と、嫌悪感はなかった。

 

僕とは違って、僕の髪を掴んで、素直に快楽に身を任せて声を上げて悶える渉が、愛おしくさえ思える。

 

そして、また顔を近づけると、渉の白い頬が仄かに紅くなって、それを見られないように渉は腕で顔を隠す。

 

その腕が微かに震えていた。

 

「なんで震えてんの」

 

「震えてない」

 

意地を張るように顔を背ける渉を後ろから抱きしめる。

 

腰を押し付けると、渉は低く小さく呻いて、僕の腕を掴んで爪を立て、眉間に深いシワを寄せて、歯を食いしばった。

 

「渉…痛い?やめる?」

 

渉は更に爪を立てて力を入れて、それでも首を激しく横に振った。

 

「…やめない…航平に抱いて欲しい…」

 

渉の身体は更に震えて、それを止めてやりたくて全身で覆い被さる。

 

時間をかけて、ゆっくりと渉を抱くうちに、ただ初めは押さえつけていた欲望を満たそうとしていただけなのに、そんな僕に身を委ねて、快楽に素直に声をあげて喘ぐ渉が、ただ愛しくて、ずっとこうしていたいとさえ思えた。

 

そして今、背を向けて寝てるふりをして、本当は静かに泣いている渉を抱きしめる。

 

「なんで泣くんだよ」

 

「…あんなに俺のこと嫌がってたくせに。ずるいんだよ、お前」

 

「…ごめん」

 

「馬鹿にしてるよ、最低だ」

 

そう吐き捨てると、ベッドから転がるようにして下り、「帰る」と言って、背中を向けたまま床に脱ぎ捨てた服を着た。

 

「なんで?朝までいろよ」

 

「どうせ、やることやったら用無しだろ?それに…」

 

渉は僕の前に左手を広げて見せた。

 

「俺はひとりじゃないんだよ、忘れんな」

 

そしてその左手で、僕の頬を撫でて「でも、俺は馬鹿だから。きっと呼ばれたらまたすぐ来るよ」と言い捨てて、足早に部屋を出ていった。

 

ひとりになって、急に静かになった部屋で、僕はただ自分を責めるしかなかった。

 

ずっと好きだったと知っていて、不器用な愛情表現しか出来なくて、きっとそれでも僕からの電話を待っていたはずの渉を、簡単に利用した。

 

頭を冷やしたくて、ベランダに出て真夜中のなにひとつ動かない景色を見下ろす。

 

「…あれ?」

 

道を挟んだコインパーキングに、渉の車がまだ停まったままだ。

 

「なんで?」

 

少し焦って、携帯だけを握って、非常階段を駆け下りる。

 

外の風は冷たくて静かで、僕の足音と呼吸の音だけが聞こえるだけだった。

 

「なにしてんの」

 

急に呼びかけられて、飛び上がるくらい驚いて振り返ると、隣の建物との隙間から渉が煙草を片手に覗いていた。

 

「お前こそ何してんだよ」

 

「お前んちで吸ったら怒られるかと思って。なに?心配して追いかけて来たの?」

 

「悪いか」

 

「泣いてたから?」

 

「ごめん…俺、最低だった」

 

「許して欲しい?」

 

渉は、短くなった煙草を挟んだ手を、僕の胸に置いて「これ、手で消してくれたら許す」とニヤッと笑った。

 

「いいよ」

 

僕は、それを渉の手ごと、手のひらでぐっと握った。

 

痛みが頭の芯を突き抜ける。

 

渉は驚いて目を見開き、もう片方の手で僕の手を引き剥がした。火の消えた煙草が地面に落ちた。

 

「馬鹿!本気にするな!」

 

渉は僕の手のひらの紅くなったところを撫でて「抱いて欲しいって言ったの俺だろ?許すとか許さないとかじゃないよ」と低い小さな声で言った。

 

「早く帰って冷やせよ」

 

「渉が冷やしてよ…」

 

渉は「ごめん…もう帰らなきゃ」と、僕の手を撫でながら、そっと離した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

われても末に逢はむとぞ思ふ⑤

「そんな絶望したみたいな顔するなよ、あの時と同じだな」

 

僕の顔の横に両腕を立てながら、見下ろして渉が言った。

 

「2度と近づかないって言っただろ」

 

「覚えてるよ。だったら無視すれば良かっただろ?」

 

僕が目を逸らして黙り込んでいると、渉は僕から離れて、テーブルの上の僕の携帯を手に取る。

 

「何してんだよ、返せ」慌てて身体を起こして手を伸ばすと「また立ちくらみするよ」と、また笑って、僕に携帯を返した。

 

「俺の番号入れといた」

 

「そんなのいらないよ」

 

「本当?まぁ、いいや…いらなかったら消せばいいよ」

 

そう言いながら乱れた髪を軽く整えて、脱いだスーツのジャケットを抱えて立ち上がり

 

「続きがしたくなったら、連絡してよ」

 

僕を見下ろしながらそう言い残して、渉は部屋を出ていった。

 

ドアが閉まる瞬間に、僕はその携帯を投げつけたけど、その音を聞いてドアの向こうで渉の高い笑い声が聞こえた。

 

 

 

 

「画面バキバキじゃん…どしたの?」

 

同僚の片野修也が僕の携帯を覗き込んで笑って言った。

 

「うるさいな、仕事しろ」

 

「昨日ごめんな、俺の代わりに残ってもらって。ちゃんと帰れた?」

 

「お前のせいで散々な目に合った。最悪だよ」

 

「は?どういうこと?でもさ、おかげで忘れてたの気付かれずに済んだ」

 

昨日、仕事が遅くなったのは片野が結婚記念日を忘れていて、離婚の危機だと泣きついて来たせいだ。

 

その埋め合わせで、今日は片野の奢りで晩御飯を食べながら、よく喋る片野の話に半分上の空で相槌を打った。

 

窓際の席で、車道を流れる車のライトを眺めていると、ふいに昨日あいつの車に乗ってしまったことを後悔して、思い出して鳥肌がたつ。

 

「どした?聞いてないだろ、俺の話」

「うん」

「正直かよ。なんだよ、昨日なんかあった?」

 

言えるわけないだろ。

 

「久しぶりに会った友達がさ…クズ野郎になってたら、お前ならどうする?」

 

「は?なにそれ」そう言って片野は、それでもしばらく真面目な顔をして、腕を組んで考え込んだ。

 

「それはどういう意味で?例えば生活が乱れてる…つまりパチンカスだったり犯罪だったり?それとも内面的に?」

 

「内面的に」

 

「それは…ムズいなぁ…お前にとってはクズかも知んないけど、他の誰かにはそうじゃないかも知れないし、例えお前が軌道修正してやろうとしてもそれはお前に合わせた仕様にしたいだけだろ?」

 

「軌道修正してやろうなんて思ってないな…それはもうとっくに試した」

 

「じゃ、もう離れるしかないな」

 

「そうだな」

 

「それが昨日の最悪な話?何年ぶり?」

 

「10年」

 

「そりゃ変わるだろ、10年も経ったら」

 

変わった…と思った。

 

再会した一瞬は。

 

優しそうな、穏やかな、柔らかい表情をして笑ったあの時は、変わったんだと思った。

 

でも…そもそも、昔の渉はそうだったんじゃないかと思う。

 

そう。

 

変わったというより、元の渉に戻ったんだと思って嬉しかったんだ。

 

でも、そうじゃなかった。

 

例えるなら、高校生の頃に芽生えた心の闇に、今は渉の人格全てが覆い尽くされてしまったような、そんな気がした。

 

どれが本当の渉なんだろうと、考えたからって僕には関係ないとさえ思う。

 

でも、あいつ本人があの頃みたいに、まだ真っ暗な海の底でもがいて苦しんでるんじゃないかと、何故だか心配になってしまう自分が嫌になる。

 

心配なんてしなければいい。

 

心配なんてしないで、僕がこのまま何も言わなければ、何も行動を起こさなければ、二度と会うことなんてないのだから。

 

そもそも、あいつも僕に助けて欲しいとすら思っていないかも知れないのに。

 

「あれ?航平さん、修也さん」

 

そろそろ食事を終えて出ようとした頃、少し離れたテーブルにいた同じ部署の後輩、林雪乃と瀬川奈々美が僕たちに声をかけた。

 

「一緒に座っていいですか?」雪乃が馴れ馴れしく修也の肩に手を置いて、甘い鼻にかかった声で言う。僕の苦手なタイプだ。

 

「俺、もう帰るよ」

 

「えー?修也さんも帰ります?」

 

「修也は暇そうだから残しとくよ、じゃーね」

 

雪乃と修也が不倫関係だということも、もちろん知っていて知らないふりをしている。

 

修也は押しの強い女に弱い。

 

昨日、結婚記念日だから早く帰ったくせによくやるもんだと思いながら、店の外に出て駅の方向へ歩き出すと、まだ少しひんやりした風が吹いていて、気持ちが良かった。

 

「航平さん」

 

呼ばれて振り返ると、小走りでさっき雪乃と一緒にいたはずの菜々美が駆け寄って来た。

 

「なに?どうしたの?」

 

「私も帰るって出てきました」

 

「なんで?」

 

「だって…え?知ってますよね?」

 

「知ってるよ、あいつら付き合ってんでしょ?」

 

「そうです、だから気を利かせて出てきました」

 

「大変だね」

 

「そういうわけでちょっと私に付き合ってもらえませんか?」

 

「どういうわけで何を?」

 

「食後のデザート食べ損ねたんです。スタバでいいんで付き合ってください」

 

いつも馴れ馴れしくて押しが強くて、派手な雪乃の陰に隠れて目立たない菜々美が、意外に強引なことを言ったから、つい吹き出してしまう。

 

「なんで笑うんですか?」

 

「別に。いいよ、奢ってあげる」

 

「本当ですか?じゃ、めっちゃ大きいのにします」

 

「いいよ」

 

駅前まで、菜々美の歩幅に合わせてゆっくりと話しながら歩く。

 

「瀬川さんて甘いもの好きなんだ」

 

「好きですよ。航平さんは?」

 

「あんまり…」

 

店内に入ると、時間が少し遅いにも関わらずそれなりに何人か並んでいて、その間に渡されたメニューを菜々美は嬉しそうに独り言を言いながら眺めた。

 

「航平さん、なんにします?」

「普通にコーヒーでいいかな」

「え?つまんないですね」

「つまんないとかある?」

「私、バニラクリームフラペチーノにします」

「甘そ…」

「甘いですよ、そりゃ」

 

菜々美は道路に沿ってガラス張りになった背の高いカウンター席に座って、一番小さいサイズの僕のカップと、自分のベンティのカップを並べて携帯で、嬉しそうに写真を撮った。

 

「なにそれ、そんな大きいの飲めるの?」

 

「自分では買ったことないです。奢りだから!」

 

「俺も撮っていい?」

 

「いいですよー私、これ航平さんの電話のアイコンにします。航平さんも私のにしてくださいよ」

 

「じゃ、そうしよう」

 

「出来ます?」

 

「出来るよ、それくらい」

 

ふいに手元の携帯の画面を覗かれて、菜々美の巻いた髪が鼻をくすぐって、咄嗟にそれを手で軽く払う。

 

「あ、すみません…ていうか、画面バキバキですよ?なんで?」

 

菜々美が声をあげて笑いながら、僕の携帯の画面を面白がって触る。

あまりに天真爛漫に笑うから、その顔を真剣に見つめてしまって、それに気づいた菜々美は急に笑うのを止めた。

 

「あれ?怒ってます?」

「え?なんで?」

「からかっちゃダメなことだったかなって」

「携帯の画面のこと?別に落としただけだよ」

「そうなんですか?例えば…浮気して彼女に壊されたとかじゃなくて?」

「違うよ」

 

菜々美は最後まで美味しそうに、その大きなサイズのバニラクリームフラペチーノを飲み干して、満足気な笑顔になる。

 

「ご馳走さまでした、美味しかったです」

 

「喜んでもらえて良かった」

 

「また、なんかあったら付き合ってくれます?」

 

「いいよ」

 

「じゃ、また明日」

 

「うん、気をつけて」

 

手を振りながら改札の向こうに消えていく、菜々美の後ろ姿を見送った。なんとなく、少しだけ暗く落ちていた気分が軽くなった気がした。