われても末に逢はむとぞ思ふ⑥
思っていた通り、その次の日の修也のシャツやネクタイの色も、雪乃のブラウスやスカートも、昨日とまるっきり一緒だった。
結婚記念日の次の日に家に帰らないで浮気相手と外泊なんて、呆れたものだと思う。
「こっちが見てて困っちゃいますよね」
菜々美も呆れ返った顔をして、2人を見比べながら小さな声で言った。
「昨日ご馳走さまでした」
「お腹痛くならなかった?」
「なりました」
「ほんとに?」
「ていうか、早く携帯直した方がいいですよ」
菜々美が笑う度、今の僕の重い気持ちが少しだけ溶けていくような、そんな気がした。
携帯の画面は斜めに大きく亀裂が入っていて、所々がモザイクのように細かく割れていた。ドアの向こうから聞こえた渉の高笑いが、耳の傍で聞こえた気がした。
なのに
どうして僕は、この割れた携帯を修理に出すのを躊躇うんだろうか。
そして、どうして渉の電話番号を消そうともせずにいるんだろうか。
いつまでも、こうやってあいつに囚われているわけにはいかないのに。
「お前、まだ直してないの?」
仕事の帰り道、片野と一緒になり駅まで歩いていた時、僕が手に持っていた携帯を見て片野が呆れて言った。
「直すよ」
「ちょっと待った…」
急に片野が歩くのを止めて、僕の肩を掴んだ。
「なに?」
「あれ、瀬川じゃん」
車道を挟んだ向こう側。
黒い高級車が停まって、その助手席に周りを気にしながら乗り込もうとした菜々美と、目が合った気がした。
たぶん、目が合ったと思ったけどすぐに目線を外されて、乗り込んだ車と共に去っていく。
「あの車、誰?」僕が言うと片野が「噂は本当だったんだな」と答えた。
「噂?」
「うちの部長と不倫してるってさ」
漠然と
ただ、漠然と
とてつもなく汚れたものを見たような気がした。
片野と雪乃のことは、呆れながらも笑って許せるのに、それが許せなくて見ていられなかったのは、間違いなく僕の気持ちが菜々美に傾いていたせいだ。
あの少し強引な甘え方と、天真爛漫な笑い方をする菜々美を、勝手に清らかなもののように思っていたから、今、急に正面から思い切り腐った泥水を浴びせられたような、そんな気がした。
「やっと俺に会いたくなったの?」
「違うよ」
「じゃ、なんで電話なんかして来た」
帰りに見たあの一瞬の光景が頭から離れなくて、何度眠りかけても眠れなくて、誰かと話をしたかった。
「誰かと話したかった」
「俺じゃなくてもいいだろ」
「そうだな…別に誰でもよかったんだよ」
「それで俺にかけてくるんだから、よほど弱ってんだね」
「…たぶん」
「なんだよ…本当に弱ってんじゃん」
「渉」
「なに?」
「来てよ…」
しばらくの間、沈黙が続いて
僕はやっと自分が言ったことを冷静に把握し始めて、渉に言ったことを取り消そうと、取り繕おうと言葉を探し始めた時、渉が低い声で言った。
「行ってやってもいいけど…意味わかってんの」
「わかってるよ」
電話の向こうで、ふふっと鼻で笑う声がして
「俺を都合のいい愛人扱いするんじゃねーよ」
と言って電話は切れた。
それから、1時間ほどした頃には
この前とは逆に、僕が渉をベッドに押し付けて、渉にキスをして舌を絡めていた。
「好きな女が他の男に抱かれてんのが悔しくて、俺で済まそうとしてるんだ…最低だな、お前」
渉はまた、挑発するような笑い方をする。
そもそも、先に求めてきたのは渉の方だ。だけど、どうしてか僕はそれに素直に応じてしまった。
「うるさい」
「俺はいいよ。航平が抱いてくれるんならなんでも」
そして、渉がしたように渉の身体を撫でて、舌を這わせて絡める。
不思議と、嫌悪感はなかった。
僕とは違って、僕の髪を掴んで、素直に快楽に身を任せて声を上げて悶える渉が、愛おしくさえ思える。
そして、また顔を近づけると、渉の白い頬が仄かに紅くなって、それを見られないように渉は腕で顔を隠す。
その腕が微かに震えていた。
「なんで震えてんの」
「震えてない」
意地を張るように顔を背ける渉を後ろから抱きしめる。
腰を押し付けると、渉は低く小さく呻いて、僕の腕を掴んで爪を立て、眉間に深いシワを寄せて、歯を食いしばった。
「渉…痛い?やめる?」
渉は更に爪を立てて力を入れて、それでも首を激しく横に振った。
「…やめない…航平に抱いて欲しい…」
渉の身体は更に震えて、それを止めてやりたくて全身で覆い被さる。
時間をかけて、ゆっくりと渉を抱くうちに、ただ初めは押さえつけていた欲望を満たそうとしていただけなのに、そんな僕に身を委ねて、快楽に素直に声をあげて喘ぐ渉が、ただ愛しくて、ずっとこうしていたいとさえ思えた。
そして今、背を向けて寝てるふりをして、本当は静かに泣いている渉を抱きしめる。
「なんで泣くんだよ」
「…あんなに俺のこと嫌がってたくせに。ずるいんだよ、お前」
「…ごめん」
「馬鹿にしてるよ、最低だ」
そう吐き捨てると、ベッドから転がるようにして下り、「帰る」と言って、背中を向けたまま床に脱ぎ捨てた服を着た。
「なんで?朝までいろよ」
「どうせ、やることやったら用無しだろ?それに…」
渉は僕の前に左手を広げて見せた。
「俺はひとりじゃないんだよ、忘れんな」
そしてその左手で、僕の頬を撫でて「でも、俺は馬鹿だから。きっと呼ばれたらまたすぐ来るよ」と言い捨てて、足早に部屋を出ていった。
ひとりになって、急に静かになった部屋で、僕はただ自分を責めるしかなかった。
ずっと好きだったと知っていて、不器用な愛情表現しか出来なくて、きっとそれでも僕からの電話を待っていたはずの渉を、簡単に利用した。
頭を冷やしたくて、ベランダに出て真夜中のなにひとつ動かない景色を見下ろす。
「…あれ?」
道を挟んだコインパーキングに、渉の車がまだ停まったままだ。
「なんで?」
少し焦って、携帯だけを握って、非常階段を駆け下りる。
外の風は冷たくて静かで、僕の足音と呼吸の音だけが聞こえるだけだった。
「なにしてんの」
急に呼びかけられて、飛び上がるくらい驚いて振り返ると、隣の建物との隙間から渉が煙草を片手に覗いていた。
「お前こそ何してんだよ」
「お前んちで吸ったら怒られるかと思って。なに?心配して追いかけて来たの?」
「悪いか」
「泣いてたから?」
「ごめん…俺、最低だった」
「許して欲しい?」
渉は、短くなった煙草を挟んだ手を、僕の胸に置いて「これ、手で消してくれたら許す」とニヤッと笑った。
「いいよ」
僕は、それを渉の手ごと、手のひらでぐっと握った。
痛みが頭の芯を突き抜ける。
渉は驚いて目を見開き、もう片方の手で僕の手を引き剥がした。火の消えた煙草が地面に落ちた。
「馬鹿!本気にするな!」
渉は僕の手のひらの紅くなったところを撫でて「抱いて欲しいって言ったの俺だろ?許すとか許さないとかじゃないよ」と低い小さな声で言った。
「早く帰って冷やせよ」
「渉が冷やしてよ…」
渉は「ごめん…もう帰らなきゃ」と、僕の手を撫でながら、そっと離した。