われても末に逢はむとぞ思ふ⑨
渉と別れてから、すぐに季節は夏を迎えた。
その夏は、今世紀最高だとか、史上最高だとか、毎年同じフレーズで騒いでいるような気がするけど、そう言いたくなるくらいの激しい暑さだった。
でも、そんな夏もあっという間に過ぎて、また少し夜が肌寒くなった頃、一通の葉書が届く。
今時、葉書なんて珍しいと思いながら、その日はずっと他の郵便物と一緒にテーブルに置いたままにしていた。
一日を終えて、ベッドに寝転んでからそれを思い出して、テーブルに手を伸ばす。
それは、高校の同窓会の知らせだった。
とてもじゃないが、気がすすまない便りだ。
3年では渉とはクラスが離れたから、行っても会うことはないだろうし、どちらにせよあいつもきっと来ない。
お互い、あの頃のことは思い出したくないのは同じだ。
まだ子供だった僕たちの、最初の人生の挫折。
今となっては小さなことで、挫折だとも言えないようなことだったけど、あの頃の僕達は充分に傷ついた。
それを懐かしんで笑えるところまで、まだ僕は成長していない。
それに、差し出し人は渉の親友だった間宮だった。
クラスが離れてからも、この2人は卒業するまで仲が良かった。今はどうか知らないけど、何も知らないだろうけど、会えば嫌でも渉の顔を思い出す。
葉書を枕元に置いて、携帯を充電器に差し込む。相変わらず、そこにライターを置いたまま捨てられないでいる。
「私、部長と別れたんですよ」
ある日、菜々美に昼休みに誘われて、昼食をとる店を探す最中にそう告げられた。
「そうなんだ」
天気が良かったし、話す内容も深刻そうに思えたので、すぐ傍のコンビニで簡単に食べられるものを買って、公園のベンチに座った。
「はいこれ、瀬川さんの」
菜々美の買ったペットボトルのカフェオレと、甘い菓子パンを渡す。
「甘いの好きだね」
「そうなんです、甘いのと甘いのでも大丈夫です」
菜々美は今日の天気のように穏やかに明るく笑ったけど、いつまでもそのパンの袋を開けようとしないから、僕がそれを奪い取って袋を開けてまた菜々美に返す。
「あのさ、辛いかもしれないけどちゃんと食べなきゃ駄目だからね」
「…はい」
「1口ちゃんと食べたら聞いてあげるよ」
「はい」
小さくひと口パンをかじって、詰まりそうになながら飲み込んで、菜々美は話し始める。
「部長の奥さんがね…」
「うん」
「倒れたんです、病気で」
「そういえば、そう聞いたかも」
「その時に、会ってたんです…私たち。部長の携帯に連絡があって、慌てたような顔をしたから何があったのって聞いたら何でもないって言って、私と一緒にいてくれたんです…」
そこで言葉に詰まった菜々美に僕は聞いた。
「…それで後で問い正して知って、喧嘩になったとかいう話?」
「…そうです」
「なんで嘘つくんだって?」
「はい…なんでわかるんですか」
僕はそれに答えずに、菜々美に話を続けさせた。
「私、何をしてるんだろうって思って。そんなの全員傷つくだけじゃないですか。誰も幸せにならないじゃないですか…だから別れようって言って…ちゃんと別れました」
「後悔してないの?」
「してません。すごく寂しいし悲しいし、ずっと泣いてますけど…後悔はしてないです。でも…誰かに聞いてもらいたかったんです。すみません」
「偉いね、瀬川さん」
「偉い?」
「うん、偉い」
「…そうですかね…」
菜々美は少し嬉しそうな顔をして、ふた口めのパンを口に入れた。
「瀬川さん、いい子だから大丈夫だよ」
「ありがとうございます。航平さんは?」
「なにが?」
「聞いて欲しいことないですか?」
「…ないよ、別に」
「そうですか。いいですけど…ずっと悲しそうですよ」
「ずっと?」
「はい、いつもずっと」
菜々美は僕の隣に置いたコンビニの袋から、僕の買ったサンドイッチを出して封を外して「辛くてもちゃんと食べなきゃ駄目ですよ」と、僕に手渡した。
それを受け取って、今すぐにでも泣き出しそうになっていることも、きっと勘づいたはずだったけど、それ以上は彼女は何も聞かなかった。
同窓会の返事を迷ったまま、僕はすっかり忘れていて既に返事の締切が過ぎていた。その催促をして来たのは、川田だった。
川田とも高校卒業以来会ってはいなかったから、川田も携帯の番号が変わっていたら諦めようと思っていたらしい。
「来いよ」
「うーん…めんどくさい」
「めんどくさいって、なんだよ」
特に断る理由も思いつかず、半ば川田に押し切られる形で出席の返事をしたことを当日の朝ですら後悔していた。
「めんどくさいな…」
前日に実家に帰って、特にすることもないから夜は早く寝てしまって、無駄に早起きをした。
窓を開けると、微かに潮風が香って、誘われるように外に出て歩き出す。波の音がすぐ近くに聞こえた時、堤防を見上げてあの日のことを思い出してしまった。
悩んでいるような、怒っているような、物憂げな目をして海を眺めていた渉と、隣でその顔を眺めていた僕の姿が、まるでまだそこにあるかのように思える。
あの時に帰れたらなんて言うけど、あの時じゃもう遅かったんだな、一体どこまで巻き戻したら良かったんだろう…そんなことを考えた。
同窓会は、成人式以来の再会にそれなりに盛り上がっていた。川田は、相変わらず生真面目そうな顔をして説教じみた話をした。
そんな中、高校時代より更にチャラくなった間宮と目が合って、反射的に僕は目を逸らす。
「おい」
僕の名前も覚えてなんかいないだろう間宮が、僕の肩を掴んで声をかけた。
「なに?」
「お前さ…渉と会ったりすることある?」
「ないよ」
「そうか…」
「なんで?」
「俺もちょっと前までは一緒に遊んだりしてたんだけど、最近、全く連絡取れないんだよ」
「なんかあった?」
「あいつ、ちょっと前に離婚したんだよ」
「え…」
「ひとりになって楽だわって言ってたんだけど、そこから全く連絡取れないからちょっと心配してんだよな」
「そうなんだ…でもごめん、俺は知らない」
「そうか…まぁ、あいつだったら大丈夫だと思うんだけどね」
「なんで離婚したのか知ってんの?」
「あいつ、そういうこと言わないからな…」
思いがけない話を聞いて、動揺した。
二次会の誘いを断って、ようやく解放されて実家へ帰ろうとすると、酒が飲めない川田が車で近くまで送ってくれた。
「ここでいいのか?」
「いいよ、ちょっと酔ったから歩きたい」
高校生の時にいつも降りていたバス停で止めてもらって、波の音だけが聞こえるすっかり暗くなった道を、少ない街灯を頼りに歩く。
前から懐中電灯の揺れる明かりと誰かの足音が近づいて来て、僕は道の端に避けた。
「…なにしてんの」
すれ違いざまに突然、声をかけられて懐中電灯の灯りを向けられ目が眩む。
「久しぶり」
目の前で、渉が笑っていた。
一瞬、夢を見たのかと思った。
「お前こそ、何してんの」
「見ての通り、犬の散歩」
渉が目線を落とした先で、首輪につながれた雑種の子犬が尻尾を振っている。
「拾ったんだよ、ちょっと前に。実家で飼ってもらってる。航平は?なにしてんの」
「同窓会だった」
「そうなんだ」
「間宮が心配してた」
「あー…なんか聞いた?」
「なんで離婚したの」
「関係ないじゃん。お前のせいじゃないから大丈夫」
「なんで連絡してやらないの?間宮に。心配してるよ」
「うるさいな、俺には俺の事情があるんだよ。じゃーね」
渉が一方的に話を終わらせて通り過ぎようとするのを、腕を掴んで止めた。
「触んなよ」
「渉…どした?」
「なにが」
暗くてあまりよくわからなかったけど、腕を掴んで初めて気づく。
「なんでこんな痩せてんだよ」
「だから、関係ないだろって!触んなよ!」
「関係なくないだろ」
「勝手なこと言うなよ、お前がやめようって言ったんだろ!お前が終わらせたんだろ!」
渉は僕の手を振りほどいて「声掛けなきゃ良かったよ」と背を向けた。
「渉!」
「ごめん…違った。終わらせたの俺だったね…もう会わないって言ったの俺だった」
振り返りもせずにそう言って、暗闇に消えていく渉の背中を僕は追えなかった。
会いたかった。
また、何も言えなかった。
会いたかったんだって。
家に帰ると、ちょうど風呂上がりの母に玄関で会った。
「おかえり、航平」
「ただいま」
「楽しかった?」
「まぁね…」
「そう言えば…渉くんは?来てた?」
「あいつクラス違ったもん、来てないよ。…さっきそこで会ったけど…」
「そうなの…元気そうだった?」
「まぁ…ていうか、なんで?なんかあった?」
「まぁ、とりあえず入りなさいよ」
リビングで、母が僕に珈琲を入れてくれて、外は少し肌寒かったから冷えた指先を熱いカップで暖めた。
「それで、渉がなに?」
「あんまり詳しく聞けなかったけど、離婚してから鬱っぽくなっちゃったって。それでこっちにご両親が連れて帰って来たらしいわよ」
「それ、本当に?」
「本当。渉くんのお母さんに聞いたんだから。あなた達は途中から仲良くなくなっちゃったみたいだけど?それもずっと心配してたんだから」
「なんで離婚したのかな」
母は、自分の珈琲を持って僕の目の前に座り、言いにくそうに「ずっと浮気されてたらしいよ」と言った。
「浮気されてた?」
「そう。ずーっとだって。可哀想にね」
母と話した後、自分の部屋に戻って渉に電話をかけてみた。
僕の携帯は相変わらず、画面が大きく割れたままだ。
でも、間宮が言っていたとおりに携帯は呼び出しすらしなくて繋がらなかった。
僕は勝手に、渉は幸せなんだと思ってた。
所詮、帰る場所のある奴の火遊びに付き合わされているんだとすら思おうとしてた。
そんなに苦しんでいたのに、少しも気づいてやれなかった。