われても末に逢はむとぞ思ふ⑧
朝になって、カーテンの隙間から漏れる光に目を覚ますと隣に渉はいなかった。熱はすっかり下がったみたいで頭も軽くて、思い切り背伸びをした。
洗面所で顔を洗っていると、玄関のドアが開いて携帯を手に持って渉が帰ってきた。
「…大丈夫だった?」
「うん、なんでもない。航平こそ連絡してやったら?」
「俺はいいよ。別に彼女でもなんでもないんだから」
渉はまた携帯をテーブルの隅に置いて、ベッドを背もたれにして膝を抱える形で座り、テレビをつける。
僕がその隣に座って渉の肩を抱き寄せると、少し見上げるような形で「なに?したいの?」と笑って言った。
「ていうか…」
「なに?」
「渉のやらしい声が聞きたい」
「なにそれ…風邪うつったら嫌なんだけど」
渉を押し倒して、耳の後ろから首筋までを撫でて耳を舐めると、すぐに渉は堪えきれずに色味のある声を出した。
「もっと声聞きたい」
渉の身体は感じやすくて、僕はその敏感な反応と声がたまらなく好きで、気持ちが昂る。
「渉…名前呼んで」
渉は身体を反らせて、後ろから抱く僕の首に手を回して耳の傍で何度も吐息混じりに名前を呼んだ。その声で名前を呼ばれるのが気持ちよくて、首に回された手を握ると、渉が強く握り返して爪がくい込んだ。
「航平…愛してるよ…」そう言うと、渉は身体の力を抜いて床に倒れ込む。僕もその背中にしがみついて、乱れた呼吸を同じように整えた。
僕を少し押しのけて、渉は身体の向きを変えて僕の顔を撫でる。
「やらしい声してた?」
「してた」
「意味わかんないんだけど」
渉は照れたように、幼い顔をして笑った。
「やば…しんどい」
「馬鹿じゃん、ちょっと熱下がったからって」
「だってもう帰る気だろ」
「…なんで?」
「電話…なんだった?」
僕がそう聞くと、僕の体を押しのけて脱ぎ捨てた服を引き寄せる。適当に答えればいいのに、黙り込んだまま起き上がってTシャツに袖を通し、煙草を掴む。
「ここで吸っていい?」
「いいよ。灰皿ないけど」
「持ってる」
ハンガーにかけた上着のポケットから、携帯用の灰皿を取り出して、僕の隣に座る。
もう一度、昨日からの電話がなんだったのか聞きたかったけど、きっとこのまま答えずに流されるんだろうと思っていた。
でも、煙草を半分くらい吸ったところで渉は火を消して「昨日、結婚記念日だったんだってさ」と答えた。
「は?ヤバいじゃん」
「ヤバいね…忘れてた。めっちゃ怒ってた」
さっき消したばかりなのに、渉はもう1本新しい煙草を出して、火をつけずに口に咥えた。
「嘘つくなよ。忘れてたなんて」
「嘘じゃないよ」
「嘘だよ。帰れなかったんだろ?俺が呼んだから」
「…違うよ」
「俺がいたから電話も出られなくてさ」
「違うって」
「そうやってまた嘘ついてさ、溜め込んで、またいつか爆発するんだよ」
お前に何がわかるんだよ!辞めたかったんだよ!
昔そう言って、僕に掴みかかって叫んだあの時の渉の声を僕はまだ忘れていない。
渉は煙草に火をつけようとしたのをやめて、しばらく僕の顔を睨んで、手に握ったライターを僕の方に投げた。ライターは、肩をかすめて壁に当たった。
「なんなんだよ…航平、お前さ。人のこと好き勝手に弄びやがって偉そうに」
渉の言ったことに、返す言葉は浮かばなかった。
ずっと昔から、渉は僕のことを好きだったのに、突き放しておいて、放置しておいて、自分がその気になったら利用する。
言い訳しようのない本当のことだ。
僕はまた、突き放すべきだった。
僕のことを忘れて、結婚したと知った時点で、近づいてやるべきじゃなかった。僕への気持ちが再燃することを止めてやるべきだった。
僕が、こんなに渉のことを好きになる前に、離れるべきだった。
「そうだな…ごめん、悪かった。とりあえず…帰って謝れよ」
渉は吸うのをやめた煙草を箱に戻そうとするけど、手が震えてうまく戻せなくて、そのまま手のひらで握り潰して、その握った手をテーブルに叩きつけて、苛立ちを表す。
「…わかったよ、帰る」
そう言って立ち上がって、僕が貸した部屋着を脱いで、着てきた仕事用のスーツに着替えた渉は、テーブルの上の携帯と車の鍵を掴んで
「もう、呼ばないでくれよ」
と、言い捨てた。
「…なにそれ…もう会わないってこと?」
「もう嫌なんだって…都合よく呼ばれて利用されて、誰かの身代わりかも知れなくても、それでも会いたいから飛んで行ってさ…ちょっとくらい無理してもって思ってさ…だって、やっと振り向いてもらえたんだよ…だから、馬鹿みたいに言いなりになるに決まってるだろ…」
「そんなんじゃないよ、俺は渉に会いたいから…」
「信じられるかよ!もう、嫌なんだよ!自分にうんざりするんだよ!!!」
渉の叫び声が裏返る。
あの時と同じだ。
大好きだったバレーが嫌になって、苦しくなって、辞めたくて、でもいつも楽しそうに振舞って、自分を押し付けて騙し続けて、最後には自分で自分の心も身体も壊してしまった。
あの時と、まるで変わっていない。
それでも、まだ自分が悪いと思っている。
自分が悪いと言い続ける。
「渉、いいってもう…やめろって」
顔を手で覆って、俯いて肩を震わせている渉がものすごく小さく見えて、思わず抱きしめたくて手を伸ばすけど、ぐっと力をこめて堪える。
「もうやめよう…このままだったら、お前が壊れちゃうよ」
渉はその言葉に、一瞬だけ声をあげて泣いた。
渉が出ていった後、頭が痛くて、気分が悪くて、床に座り込んだ。手をついた床に違和感があって、その手をどかすと、そこに渉が投げたまま置いていったライターが落ちていて、ただの使い捨ての安っぽい物だったけど、僕はそれを握りしめて泣いた。
風邪のせいかも知れないけど、意識が朦朧とするくらい、長い時間、泣いていたような気がする。
渉を傷つけ続けたこと。
渉を失うこと。
渉に僕の本当の想いが伝わらなかったこと。
渉を愛してたのに、そう言えなかったこと。
全部が後悔ばかりだ。
それでも、あいつは泣いていたけど無事に家に帰っただろうかとか、ちゃんと謝っただろうかとか、許して貰えただろうかとか、そんなことをずっと考えてしまう。
また熱が上がってきた気がして、這うようにベッドに寝転んだ時、枕元の携帯が鳴った。昨日、何回か電話をくれていた瀬川菜々美からだ。
無意識に握りしめたままの渉のライターを代わりに置いて、携帯を手に取る。
「もしもし…昨日ごめん、電話くれてたのに出られなくて」
「いえ、こちらこそすみません。仕事のことで聞きたいことがあったんですけど…」
「本当?ごめんね、なんだった?」
「代わりに片野さんに聞いたので大丈夫です。片野さんに聞いたら、体調悪くてお休みだったみたいなのにすみませんでした」
「いや、いいよ…解決したんなら良かった」
「航平さん?」
「ん?なに?」
「大丈夫ですか?」
「ちょっとまだ熱あるかな…ていうくらい」
「違います」
「え?」
「泣いてません?」
「…泣いてないよ」
その週末は、一歩も外に出る気にもならなくて、部屋を思い切り掃除した。ソファーや、テーブルの配置も変えて、部屋に残る渉の記憶を消すみたいに、何もかも変えた。
途中、ここに渉が座っていたとか、ここで煙草を吸っていたとか、笑っていたとか、ほんの短い間のことだったのに、片付けても片付けても溢れてきて、何度も涙ぐむ。
我ながら情けないと思う。
往生際が悪いと思う。
それでもどうしても、最後に僕に抱かれた時の渉の声が忘れられなくて、愛してると言った言葉に答えてあげられなかったのが悔しい。
渉は、誰かの身代わりでもいい、利用されてるだけでもいいと言ったけど、それは僕も同じだった。
なのに、なんで我慢できなくて、電話の内容なんて聞いてしまったんだろう。
変な嫉妬なんてしないでいれば、まだ少しは一緒にいられたはずなのに。あいつは僕の愛情を疑いながらも一緒にいてくれたはずなのに。
自分で別れを切り出しておいて、これからもこうやって情けなく後悔するんだろう。