enti(エンティ) ⑨
バイトに復帰した迫田は僕に深く頭を下げて「悪かった」と言ってくれた。
友香には、しこたまやりすぎだと叱られて、被害届を出されなかったことに感謝しろと言われたらしい。
そして結局、加奈から連絡のないまま、2度目の水曜日になった。
「最初から遊びだと思ってただろ?なのに馬鹿みたいに本気になりやがって…」
リヒトの言うことは全く言い返せない。
結局、あの日どうして加奈が泣いていたのかも聞けないままだ。どうせ終わるなら、終わりだと言って欲しかった。
毎日、いつでも手放せなかった携帯をようやく少し諦め始めて、気にしなくなる時間が増えた頃、バイトが終わって着替えている時にリヒトに言われてマキのSNSを久しぶりに開いた。
「ヤバくない?お前」
「なにこれ…なんだよ…」
❝可哀想な晴樹くん❞
❝フラれちゃったね❞
その文章に添付されていた写真は、あの日最後に別れたロータリーから出ていく加奈の車の後ろ姿だった。
あの時、マキはそこにいた。
学校が終わって、僕がバイトに行ってから加奈と部屋にいる間、あいつはずっといたんだ。
❝こんな女❞
❝死んじゃえばいいのにね❞
❝死ね❞
投稿は、たった今だ。
寒気がして震えた。
「好きってのが伝わらへんかったら逆恨みするで」友香の言葉が蘇る。
「お疲れさん…え?どうした?」迫田も仕事を終えて着替えるために休憩室に入ってきて、僕の顔を見て言った。
「青い顔してどうしたんだよ」
「マキが…」僕がそう言ってマキのSNSを見せると、迫田も眉間にシワを寄せて「マキに電話しよう」と言って携帯を耳に当てた。
「もしもし?マキ?お前どこにいる?…は?」イラついた口調で話しながら、僕をちらっと見る。
「お前に代われって…どうする」
リヒトも僕の顔を不安そうに見る。
「出ます」
「もしもし?なに?」
「今日はデートじゃないの?いつも水曜日だよね」
「関係ないだろ」
「フラれちゃったの?可哀想…でも私、あの人の家とか知ってるよ?押しかけちゃう?ついてってあげてもいいよ」
「なに言ってんの?マキ」
「私、ずっと晴樹くんのこと好きなのに…私のこと知りもしないなんてひどい…喋ったこともないなんて」
「それはごめん…謝るから」
「謝るから?どうして欲しいの?あの人に何もしないでって言いたいの?馬鹿じゃないの?フラれたんだよね?やっぱり頭すっからかんだね、あんた」
そう言い残して、電話が切れた。
僕は店を飛び出して、震える手で加奈に電話をかけた。
出ないかも知れない。
出られないかも知れない。
不安が募る長いコールの後、久しぶりに聞く加奈の優しい声がした。
「もしもし?」
「加奈?」
「うん」
「何も怖いこと起こってない?大丈夫?」
「どういうこと?」
その時は必死だった。
必死に手短に加奈にマキのことが伝わるように話した。
「わかった…今は大丈夫よ」
「良かった…」
言いたいことはたくさんあった。
会いたい。
もう終わりなら、最後に会って終わりと言って欲しい。
でも、嫌われたくない。
困らせたくない。
だから、こみあげる涙を必死におさえて「気をつけて。じゃあね…」と電話を切ろうとした時
加奈の優しい声が
「晴樹…会いたい…」
そう言った。
「…会いに来てよ…加奈…会いたいよ…」
電話が終わるのを、心配して追ってきたリヒトが待っていた。
「ほんと馬鹿だな、お前…呆れるわ」
そして僕の背中を思い切り叩いて
「どうせボロボロになるのわかってるから、とことん見守っててやるよ」
そう言って笑った。
「俺、お前んちに泊まりすぎて母ちゃんに怒られるわ…」
迫田に送り届けるように言われたリヒトに、どうせだったら泊まって行くかと言った。
「どうしよっかなぁ…」リヒトがそう言いながら僕より先にエレベーターを降りて、部屋に向かって歩く。その後に続いて歩き出すと、リヒトが突然止まって僕はその背中にぶつかった。
「どした?」
肩越しに前を見ると、部屋の前にマキがいた。
「ついて来て良かったわ、俺」
マキはこっちに気づくと悪気のない笑顔で近づいて、まるでリヒトはいないかのように両手で僕の腕を掴む。
「なんだ…電話してたから、あの女が来るんだと思ったのに」
「見てたのか?」
「なに話してるかは知らないけど、フラれたんじゃなかったの?早くフラれちゃえばいいのに、しつこいね」
「ヤバい女だな、お前」リヒトが言った。
「関係ないでしょ?」
「その右手、開いてみろ。見えてるぞ」
僕の腕に回した手にマキは一層力を込めて、リヒトを睨む。
「ほら、出せ。危ないから」リヒトが手を広げる。
マキは余計に右手に力をこめて握りしめる。
「握るな!馬鹿!」
今度は無理やりマキの腕を掴んで右手を広げさせると、マキの手から血が滴った。そして、床に10cmほどのガラスの破片が落ちて跳ねた。
「マキ…何しようとしたの?」
マキは声を出して泣き出す。
「とりあえず中に入ろう」僕がそう言うとリヒトは「ストーカー家に入れるやつがあるか」と呆れた顔をして、マキも驚いた顔をした。
「だって、このままじゃどうしようもないし」
どうせ家は知られてるんだから仕方ない。
マキとリヒトを部屋に入れて、マキを座らせる。手を洗わせて、リヒトがタオルで手を押さえてやると思っていたよりは傷が浅くて、すぐに血が滲まなくなった。
「それで何しようとしたの」
僕が聞いても、マキはまだ鼻をすすって黙ったままだ。
「僕のこと刺そうとしたの?」
「…ちょっとだけ…」
「ちょっとだけ刺すってなんだよ」リヒトが口を挟む。
「この前みたいに顔に傷をつくってやろうって思ったの…もし、彼女と一緒に帰って来たら脅してやろうと思ったの…」
「なんでそんなになるほど僕のこと好きなの?また怒るかも知れないけど、理由がわかんない」
マキが素直に話し始めたから、さっきまでのマキへの恐怖心や激しい怒りは少し和らいでいた。
「…覚えてないと思うけど…」
「うん、ごめん」
大学に入学したその日に、マキは僕と初めて出会ったらしい。マキが何処かで携帯を落としてしまって、友達との待ち合わせ場所がわからなくなって、知らない人ばかりの中で不安になって焦っていたら、僕が声をかけた。
どうしたの?と聞いて理由を話すと、友達との待ち合わせ場所に連れていってくれたと言う。
「すごく不安で…みんな知らんぷりして通り過ぎるのに、ひとりだけ心配して立ち止まってくれて」
確かに、言われてみればそんなことがあったなとは微かに思い出せる程度のことだ。そんなことがあったのは思い出せても、それがマキだったなんてことまでわかっていなかった。
「友達と会えた時に、良かったねって言ってくれたその笑顔が…天使みたいに見えたの」
リヒトがマキのその言葉に必死に笑うのをこらえようとしていたので、僕は手に持っていたタオルを顔に向かって投げた。
「覚えてなくてごめん、本当に。でも、そんなんじゃないよ…天使みたいとか言われるような人間じゃないよ…マキにもひどいこと言ったし、ごめんね」
「だって好きになっちゃったんだもん…」
「ありがとう…でもこんなことしちゃ駄目じゃん…」
マキはまたポロポロと涙を零して泣き出した。
しばらくして、リヒトが呼んだ迫田と友香がマキを連れに来た。
「マキ…なにしてんのよ…もうやめよ?」
友香は僕が聞いたことも無い優しい声でマキに語りかける。
「好きな人、傷つけんのもうやめよ?な?」
「うん…ごめんなさい」
友香はマキを抱きかかえて「この子のことは、私がちゃんと見るから。友達やし。だから、アホ彼氏に引き続き許したってくれへんかな」と言った。
「わかったよ、大丈夫」
「まぁ、あんたも性格直した方がいいで」友香が笑って言うと「俺もそう思うわ」とリヒトが頷いた。
「俺も一緒に行くよ」
リヒトは、迫田と友香たちについて一緒に部屋を出ていった。