enti(エンティ)⑩最終話
部屋にひとりになって、加奈に電話をかけた。
「今、大丈夫?」
「うん」
「さっき言ってたこと、もう大丈夫だと思う。解決したよ」
「そうなの、良かった」
「うん…話すの久しぶりだね」
「ごめん、ちょっと色々あって…この前はごめん、急に帰るなんて言って怒って当たり前だよね」
「ううん…あのさ…加奈」
❝好きな人傷つけんの、もうやめよ❞
友香の声が頭の中で聞こえた。
「なに?」
「会いたい。会って言いたいことがあるから」
もう終わりにしよう。
最後に会って、そう言おう。
もう、この火を消そう。
次の週の水曜日、加奈は僕の部屋に来た。
ずっと会えなくて、加奈は僕の顔を見た瞬間に僕の胸に飛び込んで来たから、僕も力の限り抱きしめる。
会えなかったから、その時間を埋めるみたいに
僕は最後だと自分に言い聞かせて、言葉少なに抱き合った。
加奈もそれがわかっているかのように、僕から離れずにしっかりとしがみつく。
その手の感触と、僕の耳元で漏れる声と、僕を求める潤んだ目を、しっかりと脳裏に刻みこむ。
僕はいつの間にか泣いていて、息が苦しくなる。
加奈はそれを拭って、吐息混じりに「ごめんね」と言った。
僕達は、しっかりと指を絡めて手を握ったまま少し眠った。
「ねぇ、なんで最初に会った時に泣いてたの?」
「言ってなかったね、そういえば」
「うん」
「聞きたくないことかも」
「いいよ」
「あの日ね…浮気されてたのがわかったの…それで悲しくて悔しくて…」
「…うん…」
不思議なくらい、僕は落ち着いてその話を聞いた。もう終わろうって決めていたからだと思う。
「だから…最初は私も…晴樹が私をからかうつもりで、遊びのつもりで誘ってるのがわかってたから…可愛い男の子にからかわれて、それも嬉しくて…」
「仕返ししようと思ったんだ…」
「うん…でも…」
「いいよ、もう言わなくて」
僕は、いつも加奈がしてくれるみたいに加奈の髪をくしゃっと撫でた。
「僕は、加奈のこと本気で好きになれて良かったよ…」
加奈は顔を両手で覆って
「私も、心の底から好きだよ…」
と泣いたから、僕は少し意地悪をしたくて手を握って顔を見た。
「僕ばっかり泣いてるところ見られて不公平だよ」
「晴樹が、僕のものになってって言ってくれて…本当はすぐにでもそうなりたかった。でもね…」
「仲直りしたんだ」
「反省してくれて…本当は私たちのことも気づいてて…それでも反省するからやり直したいって言われて、ずっと揺らいでしまったから…晴樹に顔を合わせられなかった…」
「いいよ…大丈夫…もう戻ってあげて」
「晴樹…」
「だからもう、終わりにしよ…」
最後は、たぶん加奈に笑顔を見せられたと思う。
本当は、浮気された仕返しだと聞いて聞かなければ良かったと思ったし
嫉妬に狂いそうだったし
加奈が部屋を出て行った時、胸が張り裂けるどころか、身体中がバラバラになるみたいに痛くて、何度も追いそうになった。
追いかけてすがりついて泣きたかった。
ドアノブに手をかける度に唇を噛んで、少し血が出た。
涙と血の味がして、僕はそのまま玄関の冷たい床に座り込んで朝を迎えた。
泣いても泣いても涙が枯れないんだと思った。
心の底から好きなら
帰らなければいいじゃないか。
しばらく僕は、毎日泣いていたと思う。
暇さえあればリヒトを呼びつけて、ずっと泣き言を言って呆れられて、怒られて。
それでもリヒトは「偉かったな」と言ってくれた。
「お前が別れたって話の時に言うのもなんだけどさぁ…」
「何?リヒト彼女でも出来たとか言うの?」
「俺、マキと付き合うから」
「はあ????」
「あいつ、めっちゃメンヘラだな。俺、メンヘラ好きだわ。だから、今までみたいに晴樹の泣き言ばっか聞いてらんないの。お前もメンヘラだしきっと大丈夫だわ、俺」
「メンヘラとか言うな馬鹿」
リヒトはそれ以上は語らず、ニヤニヤしながらゲームに集中した。
確かにあの日、マキを救ったのはリヒトかも知れない。リヒトが気づいてやらなかったら、マキは僕を傷つけていたし、マキもどうなっていたかわからない。
時々、人混みに紛れていると加奈と同じ匂いがして振り返ることがある。
忘れろなんて無理な話だと思ってる。
しばらくして、加奈の同僚達がバイト先の店に来た。加奈はもちろんいない。
リヒトが「あの人、どうしたんですか?あの髪の長い…巻き髪の…優しそうな…」と聞くから、僕は肘でリヒトを小突いて睨んでやった。
「優しそうなって何よー!私たちだって優しいじゃないの!ね!晴樹くん」
「…あーそっすね…」僕が愛想笑いしてその場を去ろうとした時、「あの子、やっと妊娠してねー今つわり真っ最中で遊んでくれないの!2ヶ月だって」と聞こえた。
リヒトが「しくじった?」耳元で聞くから「残念でした、計算合いません」と、今度は肘をみぞおちに軽く入れてやる。
「旦那さん、それですっかり人が変わったらしいわよ、車ももう今からファミリーカーに買い換えるって喜んでるって。ご馳走様よねー」
僕は小声で「ちょっともう黙らせてくれない?」とリヒトを睨む。
まだ、ちゃんと忘れたわけじゃない。
目の前が霞むのを必死に堪えて、鼻の頭がツンとする。
でも
幸せで良かった。
あの時、終わらせて本当に良かったんだと思えた。
いつかまた、ちゃんと彼女を忘れられるか不安だけど
どうしてもまだ、部屋には彼女の残り香があるような気がするけど
いつかきっと、それも笑って話せるんだと信じている。
出会うのが遅すぎたとか、もっと早く出会えてたらとか
そんな綺麗ごとなんかじゃない。
僕達は、あの時、あんな風に出会ったりしなかったら、あんなに愛し合うこともなかったと思う。
今は悲しくて寂しくて、時にはまだ泣いてしまうけど
僕はいつか起き上がって
その強い光の方へ進む。
【完】