entiエンティ⑧
「なぁ、ちょっと」
僕は朝から友香を探して、ようやく昼頃に外をひとり歩いているところを見つけた。
「なに?」
「この前は悪かった」
僕が素直に謝ったから、振り返った時は睨みつけてきた友香も、今度は逆にきょとんとした顔をした。
「えーっと…こっちこそごめん、なんか、そこまで怪我させると思ってへんかったから…」
「それはいいよ、先に悪かったのこっちだし…ちょっと聞きたいことあるんだけどいい?」
「ええよ」
「マキっているじゃん、あいつ…」いざとなると、友香になんと聞いていいかわからない。アカウントのことを言うべきかどうか迷う。
「マキやろ?私も気になっててん…今日は時間ある?ちょっとうち来て」
「は?やだよ、そんなことしたら今度は彼氏に殺されるよ」
「大丈夫やって、うち実家やし」
「実家なんだ」
「そう、お父さんの仕事の都合で家族で引っ越してきてん。高校生の時に」
「未だにコテコテやんか」
「変な関西弁真似すんのやめて、きしょい」
友香の家は、学校のある駅からふたつほど路線を乗り換えた静かな住宅街だった。
「あんな…みんなマキが私のパシリやとでも思ってるやろ」
「うん」
「ちゃうで」
「どういうこと?」
「高校生の時は全然逆。あの子がクラスで一番目立つ子やってん…ほら」
友香がクローゼットの奥のダンボールから出してきた、まだ新しい卒業アルバムをめくる。
「口で言うても信じへんやろうから、見に来てもらってん」
友香が指さしたのは、今とは似ても似つかない明るい髪と極端に短いスカートのマキの写真だった。
「めちゃくちゃメンヘラやねん。この時のこの格好は、好きな男の好みがこれやったから。男の趣味でコロコロ変わる。ほんで、マキが晴樹のこと好きなん伝えたんもマキに頼まれたからやし」
「迫田も?」
「いや、それは普通に私がムカついたからや。でも、私からその話聞いた時めっちゃ嬉しそうに見に行ったで」
「僕には心配そうにしてたよ、しかも友香に見て来いって言われたって」
「そやろ?怖いやろ?大学に入って派手な見た目にするのはやめたけど…かといって最近ちょっと地味というか大人っぽすぎるなって思っててん」
「もしかして…」
「そう、あんたの彼女の真似や」
あまりの展開に頭が整理できなくて、僕は黙り込んだ。
「素直に謝ってきてくれたから教えといたろ思ってん。気をつけた方がいいで。高校の時も平気でストーカーしてたからな。好きってのが伝わらへんかったら逆恨みするで」
「なんでそんなのと友達なの?」
「…そやな、やっぱり引っ越してきて友達おらん時に友達になってくれたし…誰か一緒にいて見てたらんと、どうなってしまうか心配やろ?」
そうか、リヒトと一緒だ。
❝俺がいないと困るだろ❞
どうしようもない友達を見捨てられないんだ。
「お前、いいやつじゃん」
「そやろ?」
「ありがとう、本当にこの前はごめん」
「ええって、私こそごめん。ちゃんと彼氏にはやり過ぎやって怒っといたし…大丈夫なん?」
「今はね」
「お詫びに、マキのことでなんかあったら助けるしいつでも言うて。なんならあのアホ彼氏も出てこさすし」
そう言って、友香は連絡先を教えてくれた。
「そうや…」
「なに?」
「ひとつ聞にくいこと聞くけどええかな?」
「なに?」
「あんたのその彼女、既婚者やろ?それにとやかく言う気はあらへんけど…マキ、そこまで気づいてるから気をつけてな」
その週の水曜日は僕がバイトだったから、加奈が持っている鍵で先に家に来ていた。
その日は、朝から雨が降っていた。
「もう痛くないの?」ベッドで寝転んでいる頬の傷を、加奈が人差し指で優しく撫でた。傷はもう、触らなければわからない程度になっていた。
「うん」
「なんで喧嘩したの?」
「いいじゃん、別に」
「仲直りした?」
いつもこうだ。
まるで子供みたいに扱う。
「ねえ、やめてよ、その言い方」
頬を撫でていた腕をつかんで怒ると、また子供を宥めるみたいに「ごめんね」と微笑む。ちょっと腹が立つ時があるけど、この笑顔が好きだから仕方ない。
枕元でベッドに座って、髪を拭いている加奈の腰に腕を回すと「髪、乾かしてくる」と言って立とうとする。
「乾かさなくていいよ」
「だってベッド濡れちゃうよ」
「いいじゃん」
「癖がつくし…」
「明日、また早起きして洗ってあげる」
「起きないくせに」
濡れた髪がひんやりと冷たい。
加奈は、まるでそれが癖になったように僕の頬を何度も撫でる。
いつまでこうやっていられるんだろうって、今だけは幸せでいたいのに考えずにいられない。
いっそ、その濡れた髪で僕の火を消して欲しいとすら思う。
「何かあった?」
「なんで?」
「いつもより甘えてる」
「だから子供扱いしないでって」
その時、また加奈の電話が鳴る。
僕はつい舌打ちをする。
邪魔するなよ。
「まだ駄目」
加奈は困った顔をしたけど、また僕の頬を撫でて「怖い顔しないで」と言ってもう一度、僕に抱かれた。
早く電話に出たい焦りなんか気付かないふりをした。
「ねぇ、もう離して…」
加奈はベッドから抜け出して服を着て、テーブルの携帯を持って部屋を出た。
しばらく帰って来なかったけど、部屋に入るなり僕に「ごめんね、帰る」と言った。だいたい想像はしていたから、僕が返事をしないで背中を向けていると、加奈は顔を覗き込んで来る。
「怒ってるの?」
「どうやって帰るの?もう電車ないよ」
「駅まで迎えに来るって…会社で残業遅くなるから友達の家に泊まるって言ったんだけど。最近、遅すぎるからって…」
「なんだよそれ」
「ごめん」また、加奈が困った顔をするから、その顔にさせてしまった僕が悪いのはわかっているのに吐き出しかけた、抑えていた気持ちが溢れ出る。
「また、会えないじゃん…来週だって会えるかわからないんだろ?嫌だよ、1日中ずっと連絡待って、駄目になってまた待つの…」
「ごめん…」
「嫌だって!帰らないで!」
加奈はもう返事もしなくて、ごめんとも言わなくて、ただ悲しそうに見下ろす。
言っちゃいけないことはたくさんある。
自分に言い聞かせて、目を瞑って深呼吸をした。
加奈の気配がなくなって、髪を整えて、カバンを持って黙って出ていこうとする。
思わず起き上がると、それに気づいてまた加奈が困った顔をするから止まらなかった。
「別れてよ…僕のものになってよ」
加奈はその困った顔のまま、背中を向けて部屋を出ていった。
僕は急いで服を着て、非常階段から追いかけて外に出ると、雨の中を早足で歩く加奈が遠くに見えた。
気づかれないように後を追って歩く。
雨は、夕方より少しだけ強くなる。
駅まで歩いて10分くらいだけど、この時はその10分が長かった。
終電の終わった駅は明かりが消えて、歩く人も居なくて、車もまばらに通り過ぎるだけだ。
加奈は、小走りにロータリーに停まっている車に駆け寄った。
あの日、海に行った車が停まってた。
加奈の趣味じゃない車から、加奈の趣味じゃない服装の男が体を乗り出して加奈に手を振る。
ここで飛び出したら、どうなるんだろう。
そんなことが頭を過ぎったけど、助手席に笑顔で乗り込む加奈を見て、目の前が霞んで動けなかった。
僕は、雨水を弾くアスファルトに膝をついて、その車を遠く見守った。
それから、加奈の連絡は途絶えた。
「ついにフラれたか」家に遊びに来たリヒトは、床に座ってゲームに夢中になりながら嬉しそうに言う。
「たぶんね」
「寝てないだろ」
「なんで?」
「すげーブス」
「うるせえ」
「居てやるから寝てろ」
「なんでお前、そんな良い奴なの?」
「ちゃんと寝て、起きたら遊んでやるよ」
「なんでどいつもこいつも子供扱いするんだよ」
そう言いながら、リヒトのいる安心感でベッドに横になると眠ってしまった。
リヒトの言う通り、ずっと眠れなかった。
会えるのは週に一度でも、毎日なにかしらメッセージは来ていたのに、もう10日ほど音沙汰がない。
別れてよなんて言ったら駄目に決まってる。
リヒトが言うみたいに、僕は浮気相手なんだから自分のものにしようなんて馬鹿すぎる。
今日は土曜日で、午前中からリヒトが来ていたけど目が覚めるともう日が落ちかけていた。
「めっちゃ寝たじゃん」
リヒトは相変わらずゲームに夢中だったけど、床に寝転んでこっちを見上げた。
「めっちゃ寝た」
「もうすぐバイト行かなきゃだよ」
「やだなー」
「やだねーてか、今日から迫田復活でしょ?よく許してあげたね」
「あー…まぁ…訳あって」
「お風呂入ってきな」
「おかんかよ、おかんいねーけど」
「自虐言えるほど元気なら良かったよ」