【remember】 another story⑦
いつものように、身勝手な時間と身勝手な都合で詩織は僕の部屋に来ると言いだした日。
その連絡が来た時は僕はまだ仕事を終えて帰ろうとしていたところで「無理だよ、まだ帰れないよ」と言うと
「待ってるから」
と詩織は電話を切った。
詩織が僕のことを待つと言うなんて、珍しいというより今まで有り得ないことだった。自分で勝手に決めておいて、間に合わないなら帰る、もう来ないと言って怒って、それを宥めなきゃいけないのがいつものパターンなのに。
「どうしたの?なんかあった?」
「いいから」
慌てて帰ると、僕は今日は電車だったから駐車場を空けていなくて、詩織の車がきちんと一番近くのパーキングに停められていた。
部屋の前に詩織はしゃがんで待っていて、僕を見つけると「遅いよ」と怒った。
「なんだよ急に…」怒っている顔を見て、心配して損したと思う。
部屋に入って、上着だけハンガーにかけて、ソファーに座ってネクタイを外そうとすると、詩織が隣に座って肩に顎を乗せ、ほどいたネクタイを引き抜いた。
「なに?どした?マジで」
「なにが?」
「欲求不満なの?」
「そうかもね」
そう言って、ソファーに僕を押し倒して僕を見下ろす。詩織の長い髪が微かに顔にかかる。
「ねぇ…もう最後にしよ?」
詩織は、落ち着いた声でそう言った。
「なんで…?」
僕も、出来るだけ自分を落ち着かせて聞いた。
「彼氏にバレちゃった」
やっぱり、あいつは僕のことを知っていて見ていたのか。そしてやっぱり、去り際のあの顔は僕に向けての勝ち誇った表情だったのか。
「嫌だよ、そんなの…」
「最初からそう言ってたでしょ?バレたら終わり、もつれたら終わりって」
僕がもう一度、嫌だと言おうとすると詩織はそれを唇で塞いで、細い指で僕の髪を撫で回す。最後だと自分で言っておいて、まるで名残惜しむように何度もキスをして髪や顔を愛おしそうに撫でる。
そして、僕の体に覆いかぶさって「ごめんね」と、吐息混じりに僕の耳元で囁いた。
ごめんねなんて、詩織の口から初めて聞いた。
僕だけが突然の別れに納得が出来ないまま、詩織に流されるままに、求められるままに、何度も彼女を抱いた。詩織も、いつもより僕の髪や顔を愛おしそうに撫でて、僕の胸元で艶やかに声をあげる。
疲れ果てて、詩織は僕の腕の中で眠ってしまったけど、僕は眠れなくて、詩織の頭を鼻先につけるように抱き寄せて、詩織と離れずに済む方法を考えてみたけど、何も思いつかない。
詩織を起こさないようにそっと抜け出して、バスルームで熱めのシャワーを浴びて頭をすっきりさせようとする。
シャワーを止めると、微かに電話の着信音が聞こえて急いで部屋に帰ると、鳴っていたのは詩織の携帯だった。
「詩織…」名前を呼んで起こしかけて、ふと魔が差した。
着信の相手が男の名前だったから、もしかしたら本命のあいつなんじゃないかと思って、後のことなんか何も考えずに、詩織の携帯をバスルームに持ち込んで受話器のアイコンをスライドした。
「もしもし?詩織、どこにいんの?」
僕は返事をしなかったけど、緊張して呼吸が荒くなって、微かに相手にそれが伝わったようだった。
「おい、お前誰だよ」
低いけれど優しかった口調が、また更に低くなり、鋭く耳に刺さる。
「…あれか、詩織が飼ってるペットか」
「は?」
反射的に声が出た。
「とっととペットは捨てて来いって言ってやったんだよ。俺はそんな自由奔放な詩織が好きだからさ、今回のことは許してやる。だから、早く返せ」
「…嫌だ」
「浮気相手は、わきまえろよ。とにかく早く帰ってこさせろ」
そう言うと一方的に電話は切れた。
叩きつけたい気持ちを抑えて、携帯をテーブルの上にそっと戻す。
「詩織、起きて」
少し強めに詩織の身体を揺すると、目を擦りながら、気だるく目を覚ました。
「そろそろ帰らなきゃ…シャワー借りるね」
バスルームのシャワーの音を聞きながら、そうやって僕の痕跡を消して、あの男のところへ帰るのかと、自分の嫉妬心に笑えてくる。
もう、終わりなんだから、いくらそんなことを思ったって仕方が無いのに。
身支度を整えて「帰るね」と立ち上がった詩織は、ベッドに座っている僕の髪を撫でた。僕はその手を掴んで、最後の悪あがきをする。
「帰るなよ。俺、詩織のこと本当に好きだよ…愛してんだよ」
いつもなら、そんな手なんか笑ってすぐに振り払ってしまうくせに、今日だけはもう片方の手で、優しく僕の指を外して「ごめんね」と言って背中を向けた。
「待って」
その後を追って、玄関のドアノブにかけた詩織の手を止めて「こうなったのは…誰のせい?」と聞く。
詩織は、上目遣いに僕を見上げ
「私のせいよ」
そう言って、僕の手を乗せたままドアノブを引いて、振り返らずに部屋を出ていった。
ドアはパタンと音を立てて閉まり、部屋は静けさを取り戻した。