妄想小説家panのブログ。

素人の小説です。

プライド【8】

「あ!そうだ!これ、爺ちゃんから」

カズキの部屋に着いた頃には、アパートの住民はもう寝静まったのだろうか明かりのついた部屋はなく、静まり返っていた。

薫さんの部屋からは、今日は泣き声は聞こえない。

静かに眠れるようにと願いながら階段を静かに上った。

そしてカズキから薄い茶封筒を渡された。この前、駐車場を掃除した時の報酬らしい。

中を見ると、小遣い程度と聞いていたが一万円札が入っていた。

「爺ちゃん喜んでた」

「悪いよ、こんなに貰ったら」

「貰っとけ貰っとけ」


「ねぇ、それで暖かい布団買ってよ、俺専用のやつ」

セイがソファベッドの上の薄い掛け布団に潜り込みながら行った。

「文句言うなよ、人の布団我先に取りやがって」

そう言いながらカズキは服を脱いで風呂場に向かった。

しばらく、シャワーの音が部屋に響いていたかと思うと中から声がした。

「もう出るから、次の人用意しとけよー」

セイが布団にくるまって寒そうだったので「先に入れば?」と声をかけたが返事がなく動かないので、布団を少しめくって覗き込んだ。

「え…」

いつの間にかセイは眠ってしまっていたけれど、僕はその顔を見て小さく声が出た。セイもその声に気づいたのかビクッと飛び起きて僕の顔を凝視した。

「何だよ」

「いや、カズキが風呂入れって…」

セイは、泣いていた。

泣いたまま眠っていた。

確実に僕に泣いているところを見られたとわかったセイはゴシゴシと顔をこすって、風呂からカズキが出てくると慌てて風呂場に向かった。

「なになに?どした?」髪をタオルで拭きながら戻ってきたカズキが、勢いよく閉まった風呂場のドアと僕の顔を見比べた。

「いや…なんか…」

「なんだよ、なんかあった?」

「泣いてた」

「泣いてた?」

カズキは、一瞬だけ何か思い当たる節があるような真剣な顔をして、すぐにいつものようにニヤニヤしはじめた。

「よっぽど怖かったんじゃね?お化け屋敷」




楽しかった1日は、もうすぐ終わろうとしていた。




セイが泣いていたことについては、本人もカズキも僕も追求どころか一度も話題にはしなかった。


その次の日、まだ2人は寝ていたけれど僕は身なりを少しだけ整え上着をかぶって、起こさないように外の渡り廊下に出た。

薫さんの部屋の外の洗濯機が脱水でガタガタと大きな音をたてている。

あの洗濯機が止まれば、薫さんが出てくる。


ガタガタガタガタ

カタタタタ…

カランカラン…


音が少しづつ穏やかになって、洗濯終了を知らせる電子音が鳴った。

偶然を装うため、2階の通路から彼女が出てくるのを待った。


すると、ガチャっと音がして薄いドアが開いた。


僕は階段をいそいで降りつつ、呼吸を整えて声をかける。

「薫さん」

急に声をかけられ、洗濯機に頭をつっこむようにしていた薫さんはビクッとした。

そして、僕の方を向いたその顔を見て僕は言葉を失う。


「あ、リク君…来てたの?」薫さんは何とも思わない様子で僕に笑顔で話しかけてくれたが、僕が言葉を失っているのを見て、ハッとして顔を隠した。

「えっと…これはちょっと…昨日、ぶつけちゃって…」

薫さんの白い顔の半分程が、紫色に変色していた。


「嘘だよね」


僕は、ようやく言葉を絞り出した。


「ぶつけたわけないでしょ?殴られたんだよね?旦那?なんでそんなになるまで殴られてんの?」

「待って待って、リク君!声が大きいから!ちょっと待って…部屋に入ろ」


薫さんは、小さい体で僕の体を部屋の中に押し込んだ。

赤ちゃんは寝ているようで小さな布団は静かだった。


僕はハッとして、上着のポケットから少しシワになったお土産袋を取り出して、薫さんに渡した。

「お土産です…あの子に」

「え?あの子に?」

薫さんは驚いて、しばらく土産袋と僕の顔を交互に見つめていたけれど、袋を開けてチリン…と中の鈴入りの玩具を取り出した。

「可愛い!ありがとう…えーっと…名前言ってなかっね。あの子は海斗って言うの。リクトとカイト、兄弟みたいね」

「海斗…いや、そうじゃなくてさ、どうしたの?その顔。ぶつけたとか信じないよ?なんなの?」

「…ちょっとね、ちょっと旦那と喧嘩みたいな…」

「ちょっと喧嘩でそんななるかよ!」

思わず、大きな声が出てしまってハッとなる。

「心配してくれてありがとう。でも大丈夫だし、リク君には関係ないから」

「関係ないけど…関係ないけどさ…でもさぁ…」

イライラする。

自分にイライラする。

関係ないと言われてなんと言ったらいいかわからないし、もどかしくて仕方ない。いくら考えても腹立たしくて、それでも僕には出来ることがなくて、背中に汗をかく。

「関係ないとかさ…言わないでよ…」ようやく出た言葉が弱々しすぎて情けない。

「あのね、リク君」

「なに?」

「リク君にまた会えたのは嬉しかったし、心配してくれてるのも嬉しい、お土産も嬉しい、だけどね…私はもうリク君の知ってる人じゃないと思って欲しいの。いつまでも高校生の時の私じゃないんだよ」

小さい子を諭すように薫さんは言った。

いつまでも昔のまんまだと思ってるのはそっちじゃないか。いつまでも僕が小学生のまんまだと思ってるのはそっちじゃないか。

「あのね、全部変わったの。私は美容師にもならなかったし、結婚もしたし、子供もいるし…あの時とは全部違うの。夢も叶えられずにこんな安アパートで赤ちゃん抱えて旦那に殴られてる惨めな女なの」

「やめろよ!」

薫さんの小さな声にならない悲鳴を聞いてハッとした。僕は思わず薫さんの細い腕を力いっぱいつかんでいた。

どうしよう。

これじゃ、見たこともないけれど暴力で支配しようとしてる旦那と一緒じゃないか。自分への嫌悪感でいっぱいになった。

でも、僕のその理性とは裏腹に腕をつかんだ手は力を弱めず、彼女の小さな体を引き寄せた。
反対側の手は、僕のアゴのあたりまでしかない薫さんの頭を僕の胸元に引き寄せる。

心臓の音がうるさいくらい聞こえて、彼女にもきっと聞こえているはずで、でも彼女が抵抗しないので、腕をつかんでいた手を今度は背中に回した。

「そんなこと言わないでよ…好きだよ…俺は」

何故か急に涙が勝手にこぼれた。

「また泣いてる…」薫さんが小さく笑った。

「あの日も…泣いてたね」そう言って胸元を優しく押して僕の顔を見上げた。

「もう子供じゃないんだね」

そしてそう言って、少し背伸びして僕にキスをした。



僕の理性は、完全に弾け飛んだ。







壁の薄い狭い部屋で、僕達は声を潜めて抱き合った。

もう寒くなりかけていたけれど、汗ばむ背中を撫でながら薫さんは僕に笑いかけた。

「逞しくなったね」

「もう大人だって言ってるじゃん」

「すぐ泣くくせに」


でもまだ僕は、子供だった。

この時、僕達はお互いの考えていることも知らずに、自分たちが置かれている立場も考えずにいて

ただただ、僕は僕の想いを果たせたと思い込んでいた。


「好きだよ」何度も言ったけど、薫さんはふふ…と笑うだけで、その度に僕の顔を撫でる。


好きって言ってよ。




嘘でもいい。




心の中で叫んでいた。




体は熱くて満たされるのに、胸はずっと痛い。












「あれー?どこ行ってたの?」

僕が部屋に戻ると、セイが歯磨きをしながら出迎えた。

「ただいま。早く起きちゃって散歩してたよ」

「ジジイじゃねーか!」セイと奥のほうでまだ寝転がっているカズキがハモるように言った。




「気持ちよかった?」



「は???なにが???」



「散歩」



「あぁ…まぁね」



僕はセイの顔をまともに見ることが出来ずに靴を脱いで部屋の奥へ進んで帰る支度をした。


「帰るの?」寝転んでいたカズキが起き上がってまだ眠い目で言った。

そろそろ寒くなるというのに上半身裸で布団にくるまっている。

「うん…母さんにバイト辞めたのバレてさ、タダ飯食ってないで手伝えってさ」

「おつかれさーん」


手伝いを頼まれたのは嘘だ。

ただの後ろめたさでその場にいられなかっただけだ。


帰り際、薫さんの部屋の開け放たれたキッチンの小窓から、海斗の泣き声と小さな鈴の音が聞こえた。