プライド番外編【樋口美香の話②】
高校入学早々、カズキは騒ぎを起こす。
厳密に言うとカズキが悪いんじゃない。混んでいた駅で同じ高校の上級生と肩がぶつかってしまっただけだ。
それに私は一緒にいたから聞いていたけど、ちゃんとカズキは「すみません」と言った。
校舎の違う私の耳にも、1年生が上級生に絡まれていると聞こえて来た。様子を見に行くべきかどうか迷っていると、さっき初めて喋った隣の席の子が「見に行こうよ」と言うので付き合うことにした。
なんであいつはすぐこういうことになるの。
もうちょい可愛い態度してればいいのに。
私がそこに着いた時には、駅でぶつかった先輩が教室から出ていくところだった。「なんだ、終わったの?」隣の席の子が残念そうに言う。
セイもそこにいたけど、カズキともうひとり知らない顔と話している。背が高くて、ニコニコと優しそうで、あの子がセイヤと友達になってくれたのだとしたら良かったと安心した。
私はもう、声をかけずに自分の教室に戻ることにした。
それからしばらくした頃、駅前のコンビニでのアルバイトを終えて帰ろうとすると、見た事のある上級生に呼び止められた。
「なんですか?」それは、入学式の朝にカズキと肩がぶつかったと因縁をつけて来た人だ。
私のことは覚えていなさそうだったけど、ニヤニヤと「同じ学校の子だよな、一緒に遊びに行こうよ」と言った。
「いえ、私はもう帰るので…」
「なんで?奢ってやるから遊びに行こ?」
そう言って私の腕を掴む。
「いやです!離してください!」
「黙って来いよ!」
怖くて泣きそうになっていた時、「美香!」と私を呼ぶ声がして、気がついたら馴染みのある頼もしい背中が私の視界を遮った。
でも、カズキが私を守ってくれるという安心感はあったけど、また怖いカズキを見ないと行けないという不安もあった。
すると、その向こうから入学式の時に初めて見たセイの友達が助け舟を出そうとしたけど、すぐにその上級生に殴り飛ばされて、駐輪場の自転車をなぎ倒して倒れた。
それをきっかけに、カズキの背中が更に熱を帯びた気がした。
嫌だ。
怖い。
すると、カズキは振り返って「行け」と私の背中を軽く押した。私は躓きそうになりながら走って、セイがそれを受け止めた。
私を受け止めたその手は少し震えていて、でも思っていたより大きい手をしていた。
背が少し伸びたのかもしれない。
初めて会った時に握った手とは違った。
どちらも私を守ってくれているけど、熱気を帯びた力強いけど怖い背中よりも、この弱く震えた手の方が私は好きだ。
それでもやっぱり、その手に守られながらも怒るカズキを見るのが怖くて目を瞑った。
その時、自転車置き場で倒れていたあの子が突然大きな声をあげた。
目を開けると、掴み合いになりそうだったカズキも上級生もその声に驚いて動きが止まり、駅にいた人達が何事かと集まった。
「お巡りさん呼びますか?」
誰かが発した言葉に、上級生はチッと舌打ちして逃げていく。カズキは悔しそうな顔をしていたけど、すぐに自転車置き場に駆けつけて「リク!リク!」とあの子の名前を呼ぶ。
リクは頭を打っていたので念の為、誰かが呼んでくれた救急車で運ばれて行き、私たちはお巡りさんに事情を聞かれて学校や親にも連絡されたけど、周りの人が証言してくれて私たちは何も悪くないということでお咎めなしだった。
事情を聞かれている間、きっとセイも怖かったし何よりリクのことも心配だったはずなのに、私の背中にずっと手をあててくれていた。
私はいつからかわからないけど、少しだけ情けなくて、優しくて、強がりなセイのことが好きだった。
次の日の朝、お母さんにこっぴどく叱られたと言うカズキが登校中に声をかけて来た。
「悪かった」
いつもの言葉。
「仕方ないよ…目の前で友達があんなことされたら怒っても」
「うん、でもごめん」
「リクだっけ?あの子」
「うん」
「喧嘩になるの止めようとしてくれたんだね」
「うん」
「あの子、きっとこれからもそうやってカズキの暴走を止めてくれると思う。だから、大切にしなよ」
「わかった」
「でも、カズキも変わらなきゃダメ。このままだと、大事な友達なくしちゃうよ。昨日だって、もしリクがもっと大怪我したり死んじゃってたらどうするの?あれがセイヤだったらどうする?」
「わかったよ…」
すっかり、口を尖らせてしょげた顔をしたので私は笑いそうになったけど堪えて顔を逸らす。
「あのさ、美香」
「なに?」
「あいつ…昨日のあいつ、2年生の松岡ってやつなんだけど、もし仕返しとかされたら怖いから帰りに送ってやるから」
「怖いけど…嫌だよ」
「なんで」
「カズキが一緒にいたら逆撫でするじゃん」
「確かに」
そう言っていた日の放課後、昇降口で私を待っていたのはセイだ。
カズキに頼まれたからと、私がその日持っていた課題の大きな荷物を黙って自分の肩にかけて歩き出した。
「重いよ?」
「重いから持ってんの」
あの時、島田に背負われて泣いていたのに、いつの間にそんなに背が伸びたんだろう。
並んで歩くと、私が少し上目遣いになる程になった。
ほんの少し、男らしくなった。
「セイは好きな人いないの?」
そう聞くと「わからない」と返ってきた。
変な答え。
思えば、セイと2人なんて初めてのことだ。
ちょっと前を歩いて、時々振り向いてくれる。
やっぱり猫みたいだ。
私は隣に並んでみる。
セイは何を考えてるかわからないけど、間違いないことはひとつある。
セイの好きな人は私じゃないってこと。
それだけは、わかる。
駅について、反対方向のセイと改札で別れた。
階段を昇ってホームに着いてベンチに座ってイヤホンを耳に刺すと、反対側の電車がもう出ていくところだった。
セイが乗っているはずのその電車を見送りながら、何故か涙が出た。
自分でも分からない。
イヤホンから聞こえた音楽が、好きな人に想いが伝わらない歌だったからかも知れない。
その時、座っているベンチに衝撃があって思わず涙目のまま見上げると、セイが驚いた顔で見下ろしていた。
「泣いてんの…」
荷物をセイに預けたままだった。
なんでもないと言ったけど、それで納得して帰るような冷たいセイじゃない。私が話さないから、私が乗る電車にまで追いかけてきて「泣いてる女の子ほっとけないだろ」「俺だって男だよ」と怒る。
そう、言われて
私はまた泣き出してしまってセイを慌てさせる。
そして、次の駅で降りて私たちは並んで座った。セイは「話したくなったら話して」と隣で黙って本を読む。
その横顔がとても綺麗で見惚れそうになるけど、私がそっちを向く度にセイも本から目を離してこっちを向く。
何度もそれを繰り返して、やっと私は言った。
「私は、セイのことが好き」
セイの手から、本が床に落ちた。
「なんでそれで泣くの?」セイが聞いたから「だってセイは私の事なんとも思っていない」と答えた。
セイは正直だ。
なんとも思ってない、ただの友達だって顔に書いてある。
それに、私はひとつ気づいてることがある。
確信はないけど、いつからか気づいていたことをセイに告げる。
ベンチに置いたセイの手を握って、セイが怖がらないように聞いた。
「女の子を好きになれないでしょう?」
ずっと見てきたけど、きっとセイは女の子に興味が無い。
男の子たちがいつも女の子の話をしていても、愛想笑いはするけどすぐに退屈そうにするし、セイのことを好きな女の子がいるよと聞いても嬉しそうな顔ひとつしない。
セイが本当に女の子に興味がないとしたら、私はきっとカズキのことを好きなんだと思っている。
カズキと一緒にいる時の顔は、他の誰かの時とは全然違う。
私の思い違いなら、それでいいんだけど
そう考えていたけど、私が握ったセイの手は震え始めている。
認めもしないけど、否定もしない。
「自分でもまだちゃんとわかってないんだね」
と、私はその手をそっと離して荷物を受け取り、ホームに来た電車に飛び乗った。
ごめんなさい。
遠くなるセイの姿を見ながら私は心の中で謝る。少し、意地悪だった。
自分でも気づいてなかったかも知れないことを唐突に指摘されてどんなに怖いだろう。
嫌われたかもしれない。
少し後悔していたけど、次の日からもセイは変わらず昇降口で私の帰りを待っていてくれた。
少し気まずそうで、怒っているような気もしたけど、やっぱり優しい。
フラれたのに、余計に想いが募る。
一学期、最後の日。
私はセイにワガママを言った。
私が泣かないならという条件で、仕方なしにという感じではあったけど、セイは夏休みに一日だけ私とデートしてくれると約束してくれた。
確実に、私は別れの日を予感していた。
セイとの約束のその日の朝だった。
その日は来た。
出かけようとすると家族がリビングで待っていて、今夜、ここから逃げるのだと言い出した。
父の経営している町工場が倒産し、多額の借金を背負うことになると言う。
もう、どうにもならないのだと。
そうなるだろうとは思っていたし、覚悟はしていたけど急すぎる。
本当に必要なものだけ荷物をまとめるように、そして誰にも話さないように釘を刺された。
私は、せめて今日だけは出かけさせて欲しいと親に頭を下げた。
何も持っていかなくていい。
何もいらない。
だから、今日だけはセイと一緒にいたい。
出かける前に、急いで本当の本当に必要なだけの身の回りのものを、大きめのカバンに詰めた。
友達の顔が浮かんで、もう会えないと思うと涙が出てきたけど、セイに会う前に泣きたくないからグッと堪えた。
セイはずっと優しかった。
興味のない映画に付き合ってくれて、映画の間も買い物をしている時も、時々私の顔を見て、私が楽しそうにしていると安心した顔をしてくれる。
帰りの電車の中、帰りたくなくて
帰ったらもう二度と会えなくなってしまうから
悲しくて
でもその顔を察して、セイがもう少し遊ぼうと言ってくれたのが本当に嬉しかった。
セイの家に行くと、とても恵まれていて
私との境遇の違いに暗い気持ちになった。
でも、それよりもセイの部屋でセイの隣に座って、また興味のないDVDを一緒に見てくれて、私は幸せだった。
DVDが終わりそうになった頃、セイがふいに不安げな顔をした。私を連れて来たことを後悔してるのかも知れない。
その顔を見て私も不安になって、嫌われたくなくて、思わずセイの腕を握る。
帰りたくないと言うと、困った顔をした。
そして、少し怒りながら私の腕を掴んで「俺は美香のこと好きじゃないんだよ?」と言った。
セイが私のことを好きじゃなくていい。
今日だけでいいから、セイを私のものにしたい。私は思い切って、手を握り返して、セイの顔を少しぐっと引き寄せた。
最初、セイはすぐ傍にある私の顔から目を逸らしていたけど
セイ少しだけ怖い顔をして、じっと目を見て「俺だって男だよ」そう言って、床に私を押し倒した。
本当は、怖かった。
自分が仕掛けたくせに、思っていたより怖い。
セイは、私が思っていたよりちゃんと男の子だった。
力が強くて、背中や腕にちゃんと筋肉がついていて、手が大きくて、吐息は低くて
怖くて震えたけど、セイも震えていた。
怖くて、体も心も痛い。
でも、セイはいつもみたいに私を見て少しでも強ばった顔をすると「大丈夫?」と、力を抜いて優しく背中を撫でてくれる。
その目がとても優しくて、いつの間にか、怖さはなくなっていった。
クーラーがついていたけど、とても熱くて、セイの額から汗が流れて、とても綺麗で思わず「綺麗…」と言ったら、セイが笑って「それは俺がいうことでしょ」と言った。
セイが、小さくて短い声と、激しく息を吐いて私を一番強く抱きしめたから、私も一番強く抱き返す。
そしてしばらくそのまま、抱きしめあった。
「暑いね…」私が言うと「うん」と肩で息をしながらセイが言って
「でもまだ離さなくていい?」と聞いたら私の顔を見て「うん」と答えた。
私はいつか、また他の人を好きになって他の人とこうして抱き合っていられるけど
セイは?
普通には生きていけなくて、きっとたくさん傷ついて、誰がセイを理解して愛してくれるの?
こうやって、抱きしめてあげてくれるの?
まるで、自分のことのように心が痛い。
窓の外はもうすっかり暗くなって、「帰らなきゃ」とセイの背中に回した腕の力を抜くと、セイも体を起こして私を見下ろす。
泣かないと約束した。
なのに、勝手に涙が溢れて手で覆っても止まらなかったけど、セイは怒らなかったし「ごめん」とだけ言った。
私と、謝らないでと約束したのに。
2人とも、約束は守れなかった。