remember⑨
店を出て、駅の方やタクシー乗り場を探す。
タクシー乗り場には列が出来ていたから、もしかしたらもう駅の中へ入ったんだろうか。
それとも、まだどこかへ行ったんだろうか。
ふと思いついて、まさかと思いながら店に戻って裏口につながる狭い路地を覗くと、やっぱり志麻はそこにいた。
「志麻」
私の声に振り返った志麻は、ゾッとするくらい冷たくて、思い詰めた顔をしていた。
「何してるの?もうやめなよ」
近づいて、ハッとした。
思わず足がすくむ。
志麻の左手に握られた小さなナイフの刃先が光る。
「志麻、やめようよ…何する気?」
「邪魔するならあんたも殺すから」
「あんたもって何?」
「私のこと弄んどいて、馬鹿にして、何が好きじゃないなの?ふざけないでよ!ずっと今度会ったら殺してやろうって思ってたんだから!!」
その声に気づいたかのように、裏口のドアが開く。
「郁人!逃げて!」
志麻の腕をつかもうとしたけど、間に合わず私の手は空を切って
身体ごと、志麻は郁人にぶつかって行く。
そして、自分の方に倒れ込んだ郁人の身体を受け止めて抱きしめ
一瞬…
志麻は嬉しそうに笑った。
そして、志麻の身体から滑るように落ちた郁人に、もう一度、握りしめた両手を振り下ろす。
「やめて!」
叫んだ私の耳に、郁人が小さく呻くような声が聞こえた。
思わず目を瞑って、次に見たのは、頭をこっちに向けて地面にうずくまってもがく郁人の姿。左手で身体をおさえて、右手は爪を立てて地面を引っ掻くようにしていた。
「郁人!」
志麻は、しばらく郁人のその姿を見下ろして眺めていたけど、郁人の血のついた真っ赤なナイフを投げて、私の肩にぶつかりながら立ち去った。
「郁人、郁人!」私は郁人に駆け寄って声をかけるけど、郁人はただ呻くだけで、左手でおさえた白いシャツは真っ赤に染まっていく。
救急車を呼ぼうとするけど、手が震えてうまく携帯が使えない。
その様子に気づいた人達が集まってきて、ひとりが近づいて声をかけてくれたけど、私は泣いて震えながら「助けてください…」としか言えなかった。
地面を引っ掻いていた右手を握ると、郁人はやっと私が傍にいることに気づいて、地面を引っ掻いていたのと同じように私の手に爪を立てる。
「ごめんね…沙和さん…ごめん」
「喋らなくていいよ…お願い…頑張って…死なないで」
私は地面に座り込んで、郁人の頬を撫でると、郁人は私の方を向いて
無理に笑って
「沙和さん、好きだよ」
喉の奥から絞り出すように言った。
「うん…わかったから」
「…でもごめんね…俺って最低だから…」
そして一度、私の手を更に強く握って
「…最低だから、俺やっぱりマオのとこに行かなきゃ駄目みたい…ごめんね」
そう言うと大きな息を吐いて
突然、郁人の手から一気に力が抜け、血に染まる私の手の中から滑り落ちた。
「郁人…郁人…」
もう、何度呼んでも、揺すっても、手を握りなおしても、郁人の身体のどこからも力が抜けて、白いシャツだけがどんどん赤く染まった。
「…嫌だ…郁人…起きてよ…」
私の願いも、もうどこにも届かない。
救急車の到着より少し早く、出かけていたマスターが帰ってきたけど
その時にはもう、郁人が目を開けることも言葉を話すこともなかった。
マスターはただ、郁人の頭のところに膝をついて、郁人とマオの名前を何度も呼んで、静かに泣いていた。
志麻は、すぐに捕まった。
血のついたワンピースのまま、隠れるつもりもなく、慌てる様子もなく、ただ、フラフラと歩いていたらしい。
郁人は、綺麗な顔で、本当に眠っているみたいだった。
私の部屋のソファでうたた寝していた顔と何も変わらなくて、耳を澄ましたら寝息が聞こえるんじゃないか、顔を触ったら起きるんじゃないかと思ったけど、ただ静かに目を瞑っているだけ。
起きて「寝顔見てたでしょ」って、もう笑ってもくれない。
私以上に、憔悴した顔をして、その郁人の顔を見下ろしている、喫茶店のマスター夫婦に郁人がマオに会いに行くと言っていたと伝えると
「本当に最低なヤツだ」とマスターが振り絞るように呟いた。
「昨日、もう解放してやると言ったんだ…」
そして、郁人の顔を触りながら、私に話しはじめた。
「こいつのことを心から心配していたマオが悲しまないように、あとはマオのことを忘れさせてたまるかと思ってね…顔を見るのも嫌だったが、私たちの目の届くところに置いて…正直なところ、少し苦しめてやろうと思ってたんだ」
私は、この人が長く話すところを見たことがなかったけど、低くて、よく響く声をしていると思った。
「でも、逃げずに3年も私たちに本当によく尽くしてくれた。だからもう解放してやると…ここにいたら、私たちの目があるから、新しい恋人も作れないだろう、もう充分だからと言ってやったのに…結局私たちに縛られたまま死んでしまったよ…申し訳なかった」
郁人は、解放してやると言われてどう思ったんだろう。
今はもう、わからないけど
そもそも、解放されたいなんて思っていたんだろうか。
郁人の家族は、誰も来なかった。
マスターは、何かしらの理由があって親との縁を切って家を出てきたとしか聞いていないと言っていた。
だから、ひとりで生きるために必死だったんだろうと。必死に生きるために、道を逸れてしまったんだろうと言った。
結局、私たちは郁人のことを何も知らないまま、郁人はいなくなってしまった。
マスター夫婦は、私に「あなたが嫌じゃなかったら、マオと同じ墓に入れてやろうと思う」と言った。
「私たちのせいで、郁人と恋人同士にさせてあげられなかったのに、最後までワガママを言って申し訳ない」と、夫婦は私に頭を下げた。
「大丈夫です…そうしてあげてください」
私は少しだけ無理に笑った。
日付も変わってすっかり朝になって、部屋に帰ってひとりになって
ようやく、人目をはばからずに声を出して泣いた。
郁人がそうしていたように、床にうずくまって声が枯れるくらい泣いた。
でも、私には背中を撫でてくれる人もいなくて、ただ声が出なくなるのを待つしかない。
郁人の声も、笑顔も、白くて温かい手も、全部なくなってしまった。
その日、私はすっかり仕事のことなんて頭から抜け落ちていて、連絡もせずに休んでしまったことに気づいたのは、クミから電話がかかって来た時だった。