remember⑥
次の休みの日に、少し時間を空けて欲しいと言われて、複雑な想いを抱えたまま、その前の日の夜はどうしても眠れずにいた。
あの日、郁人は私に「帰らないで」と言って裏口から仕事に戻って、私は表から入って行ったけど、カウンターには座らずに奥の2人がけの小さなテーブルでひとり本を読んですごした。
帰らないでとは言ったけど、きっと泣いた顔を見られて恥ずかしいと思ったから。
時々、顔をあげて、いつも通り笑顔で働く郁人を見てはホッとした。
眠れない理由は、ふたつあった。
ひとつは、郁人はきっと自分の言葉で私に何を伝えようとしているのかという不安。志麻やクミに聞いた話は、充分に私を不安にさせたし傷つけてくれたけど、郁人の話がその私の受けた傷を浅くするのか、それとも余計に深くするのか。
どちらとも、想像がつかないでいる。
もうひとつは、くだらないこと。
郁人と顔を合わせるのはいつも、オレンジの暖かい照明の灯る店の中だったから、そうじゃないところで、私よりずっと若い郁人に顔を見られることが少し心配になる。
もう20代も終わろうとしているところで、もう自分に自信も持てなくなって、鏡を見てはいろんな部分にため息をつく。
そんなふうに、頭の中がいっぱいになって、どうしても眠れなくて、ベッドで何度も寝返りをうってみたり、本を読んでみたりして、結局は明け方くらいにようやく眠くなった。
そのせいで、2時間ほど眠って目を覚ました時には有り得ないくらいの頭痛に襲われた。
肩と首からセメントで固められてるみたいに鈍いガンガンとする痛みがあって、普段は頭痛になれていないので薬もない。
約束の時間は午後からだから、もう少し眠ったら楽になるだろうかと思い、目覚まし時計を待ち合わせの2時間前にセットして、もう一度目を瞑った。
覚えてはいないけど、なんとなく嫌な夢を見ていた気がする。
アラーム音が部屋に響いて目を開けたけど、やっぱり頭の痛みは治まっていなかった。アラーム音を止めようと携帯を手に取って見ると、アラームではなくて電話がかかって来ていた。
その瞬間、身体中から冷や汗が吹き出すような気がしてベッドから飛び起きた。そして、飛び起きたせいで、余計に頭がガンガンした。
アラームに気づかずに眠っていて、待ち合わせの時間がとっくに過ぎて、着信はもちろん郁人からだった。
「なにしてんのー?寝てた?」
郁人の笑い声にホッとするけど、頭も痛いし、目覚めたばかりだったから何も言い訳が思いつかない。
「ごめん…えっと…どうしよう…えーっと…」
「どうしたの?なんか調子悪い?」
「ちょっと…頭が痛くて…」まるで寝坊した言い訳みたいでカッコ悪いと、自分で恥ずかしくなった。
でも郁人は「大丈夫?薬ある?」と、心配そうな声で聞いてくれる。
「薬ないから、今から急いで準備して買ってから行くね…ごめんね、もうちょっと待っててくれる?」
「いいよ、もうそのまんま寝てなって。買って行ってあげる」
「え?いや!駄目だって!悪いし、恥ずかしいし!部屋とか汚いし…」
「そんな慌てなくても、薬渡したら帰るよ」
そう言って笑って、家の場所を教えると「わかった、意外に近いし車だからすぐ着くよ」
どうしよう。
こういう時って少しくらい化粧をしておいた方がいいんだろうかとか、薬を渡したら帰ると言ってるから昨日のまま散らかったままでいいのか、いろいろ考えるけど
とにかく頭が痛すぎて動けなくて、とりあえずまたベッドに転がった。
頭がいたいせいだろうか、今度はどうしようもないくらい眠い。すぐに着くと言ってるんだから起きていないといけないのに。
思った通り、部屋のインターホンが鳴った音で目が覚めた。
目が覚めたけど、そこから何も覚えていない。
次に目を開けた時には、不思議と頭痛はすっかり消えていて、身体も軽くなって、気持ちよく目覚めた。
でも、目の前の景色が家の天井ではなくて、あまりに殺風景で、状況が飲み込めないでいると知らない女の人の顔が私を見下ろした。
「大丈夫ですかー?ここどこかわかります?」
単調で、機械音のような声でそう問いかけられて周りを見回す。
「えーっと…わかりません」
起き上がろうとすると、その知らない人に手で押さえられて「まだ動かないでね、点滴が終わるまで静かにね」と言った。
「あなた、部屋で倒れていて救急車で運ばれて来たんですよ。でもただの脱水症状だから、点滴で治まるからね」
全く状況が飲み込めずにポカンとしている私を置いて、看護師さんらしきその人は「終わったら呼んでくださいね」と言い残してその部屋を出ていった。
脱水症状?
きっと倒れてる私を見つけてくれたのは郁人だろうけど、どうやって?管理人さんに開けてもらったのだとして、あの部屋を見られたのかとか、もしかしたら間抜けな顔で寝ていたのかも知れないとか、つい考えてしまうと恥ずかしくて叫び出しそうになる。
「なにジタバタしてんの?」
気がつくと、白いパーテーションから郁人が顔を覗かせて見ていた。
そして、部屋の隅にあった丸いパイプ椅子を引き寄せて来て、私の顔のすぐ傍に座った。
「ちょっと…見ないで…顔」思わず空いてる手で顔を覆う。
「いや、もう見たし」
郁人は私のその手をどけて、笑った。
「びっくりした、行って良かったよ」
「うん…ありがとう…」
「ていうか、ちゃんと律儀に育ててくれてるんだ、あの花」
「…うん…」
「でもちょっと枯れそうだったけどね」
「部屋も見ないでよ…」
「仕方ないじゃん、いくら待っても出てこないし、電話かけても駄目だし、頭痛いって言ってたし、死んでたらどうしようかと思って…」
「ごめんね」
「良かった…」
そう言って私の頭に置いたその郁人の手は、指が長くて、白くて、少し赤味がかかっていて、いつものオレンジの照明の下で見るのとは少し違った。
私はその手を握って「ここにいて」と言った。
「いいよ。終わったら起こしてあげるから寝てな」
もうそんなに眠れないと思ったのに、その手の温かさに安心して、また私は、無防備に寝顔を見られてしまうことになった。