remember③
でもある時、仕事で組んでいる仲間の大きなミスによって同じチームの私もクレーム処理や上層部からの叱責に巻き込まれることになり、数日かけてようやく事が治まった時、心身ともに疲れて立ち寄るのは、やはりあの古くて静かなあの場所だった。
「いらっしゃい」
出迎えてくれたのは、カウンターの向こうでグラスを磨く姿が絵になるマスターだった。
郁人の姿がない。
「彼女が出来たらバイト休むから」と言った郁人の言葉を思い出して、急に不安になる。
冗談だとわかっているけど、逆にそれなら何があったのかと不安になる。
その時、「すいません、遅れました」と裏から慌ててエプロンをつけながら郁人が店に出てきた。
「あれ?沙和さん、久しぶり」郁人が無邪気に笑顔を見せるから、なんとなくいらないことを知ってしまって後ろめたい私は戸惑いを隠せなかった。
「どうしたの?」
「…別に…えーっと…遅刻したの?」
「そう、昼の仕事が人手不足で終われなくて…ていうか沙和さんこそどうしてたの?心配したよ?食欲ないって言ってから来なかったから…」
いつもは嬉しい気遣いも、志麻に見せられた写真がチラついて素直に喜べない。
ホストだったから駄目とかいうわけじゃない。
ただ、その気遣いや笑顔が本当なのか信じていいのか分からなくなってしまっただけだ。
「仕事がちょっと忙しくて…でも、今日はやっとひとつ片付いたから」
「そっか、良かった 」
そんな風に微笑まないで欲しい。
その日はいつもより少し客が多く、マスターも郁人もなかなか手が空かなかったから、あまり話す時間もなく、閉店近くになって少しずつ片付けを始めた頃、私は食事を終えて出ようと席を立った。
店内に郁人の姿がなかったので、そのうちにマスターに会計を頼んで店を出た。
「沙和さん」
外の看板や幟を片付けていた郁人が気づいて私に声をかけた。
「ねぇ、どうしたの?めっちゃ元気ないじゃん」
「別に…大丈夫」
「俺、なんか怒らせた?」
黙って首を横に振ると、郁人は「そっか…じゃ、いいや」と悲しそうに笑って、小さな声で呟いた。
郁人を傷つけた気がして、自分の態度に後悔する。
「じゃ、また」そう言って郁人が背を向けて店に戻るのを見て、私が少し郁人を怒らせてしまったんじゃないかと気づく。
心配してくれていたのに、私はただ自分勝手な妄想と疑心暗鬼で、彼の優しさを受けとめず拒否してしまっている。
勝手すぎる。
最低だ。
ひと言謝りたくて、そうじゃないと私はこの憩いの場を失ってしまうと思って、私は店の裏口がある狭い路地裏に入って郁人の仕事終わりを待った。
まるでストーカーみたいだと呆れながら。
「お疲れ様でした」郁人の声が聞こえて通用口が開いたけど、いざとなると怖気付いてしまって開いたドアの影に隠れた。
「沙和さん、見えてる」
壁に貼り着くようにして隠れる私に、郁人はドアから少し顔を出して声をかけた。
「待ってたの?」
「…ごめん…」
「なにが?」
「心配してくれてるのに何も話さなかったし…なんか、変な態度しちゃったから」
「いいよ、別に…俺もちょっと馴れ馴れしすぎたよね?つい沙和さんと話すの楽しくて、お客さんだってこと忘れて、余計なことまで言い過ぎだよね、ごめんね」
「違うよ、そうじゃないの…それは私の方。郁人は私がお客さんだから気を使って、話を聞いて、優しくしてくれるのに勝手になんか…調子に乗っちゃって自分の勝手な不機嫌とか…ぶつけちゃって…ごめんなさい」
郁人がこっちをしっかり見て話してくれているから、余計に自分が恥ずかしくなって、私はどんどん下を向く。
すると、郁人の手が伸びて私の手首をつかんだから、驚いて思わず顔を上げた。
「ちゃんとこっち見て話して」
そして少し苛立ったように「どうしたの?ほんとに」と私の手首をつかんだまま言った。
「なに言ってるかわかんない。俺がどうこうじゃなくて、沙和さんが自分の思ってること話してよ。沙和さんが嫌ならもう俺は余計なこと言ったりするのやめる。なんか、このまんまだと沙和さんが来なくなりそうだから、そんなの嫌だよ」
この数日の仕事のストレスや、今日の自分の態度への苛立ち、郁人の優しい言葉とで、一気に頭の中がいっぱいになって、私は思わず泣いてしまった。
「私、郁人くんが好きなの…」
私が振り絞って言うと、私の掴んでいた手を離して、今度はその手のひらを頭にそっと置いた。
「本当?」
「本当…変だよね?私めっちゃ歳上だし…郁人くんのこと何も知らないのにね」
「俺も沙和さん好き」
「嘘だよ」
「嘘じゃないよ、なんで?だって俺は沙和さんのこといっぱい話してくれたから知ってるよ?」
そして、その手のひらで私の髪をくしゃっとしながら「だから、めっちゃ嬉しい…でもね…」と言って大きく深呼吸するようにため息を吐いて
「でも…好きだけど、俺は沙和さんの彼氏にはなれないよ」
「…だよね…わかってる」
「わかってないと思う」
「どういうこと?」
「俺は沙和さんのこと本当に好きだよ、どうせ気を使ってるとか思ってるでしょ?沙和さんは。でもそうじゃなくて本当に好き。沙和さんの彼氏になれないってのは…それが嘘だからとかじゃなくて…俺自身の問題なの。沙和さんは何も悪くなくて、俺自身がその資格ないってこと」
そして、空いているほうの手を背中に回してそっと真綿で包むみたいに抱き寄せて
「めっちゃ悔しい…」そう呟いた。
俺自身がその資格がない。
その理由は教えてくれなかった。
郁人は、とことん自分のことを話さないつもりだ。
知られたくないのか、話せないのかわからないけど。
悔しいってなんなんだろう。
「その後、どうよ?あざとい系男子とは」
クミは、超能力でもあるのかと思うくらい察しがいい。
「は?意味わかんない、なに資格って?ユーキャンかよ」
「茶化さないでよ」
「ごめんごめん、でもさぁ…最終的に付き合えないなら好きとか言うなよって私は思うけどね。ずるいじゃん、そいつ」
「でもすっきりしたからいいの」
「すっきりしたの?本当?謎ばっかじゃん」
そこに、クミの悪友、志麻が休憩室に入ってきた。
外で煙草を吸ってきたんだろう、本人は気づいていないけど煙草の匂いが染み付いている。
「見つけちゃった、私」カバンの中からコンビニのパンをガサガサと出して少し下品にかぶりつきながら、志麻が言った。
「何を?」クミが問いかけると、志麻はニヤッとして「駅前のさぁ、古い喫茶店あるじゃん、知ってる?クミ」
「知らない、そんなのある?知ってる?沙和」
嫌な予感しかしなかった。
出来ることなら、その下品にかぶりついているパンを志麻の口の中に押し込んで黙らせてしまいたいと思った。
「やらかしホストのユウキ、そこで働いてたよ」
「あぁ、こないだ行った店で話してたやつ?」
「そう!意外に近くにいたよね、もう死んでんじゃないのって言ってたじゃん、みーんな!どうせあいつは畳の上じゃ死ねないって言ってたもんね」
クミも志麻も下品に大きな声で笑った。
「店の子たちに言ってやろうかなーどうしよ」
志麻は携帯を取り出して「まず誰にしよっかな」と電話をかける相手を探し始めた。
「やめなよ」
私がそう言うと、志麻は手を止めて私とクミを交互に眺めた。
「何?沙和には関係ないじゃん」
「何やらかしたのか知らないけど…今ちゃんとしてるんだったらそんなこと…」
「あー沙和、こないだ写真見て気になってたもんね!見てくれば?ビジュアルはそんなに悪くなってなかったよ?」
「そういうことじゃなくて…」
私が反論しようとすると、そのやり取りを見ていたクミが私の肩を叩いて「そろそろ戻ろっか」と言った。そして志麻に「それ本当に本人?もし他人だったらヤバいからもうちょっと確信持ってからにしなよ」と忠告した。
「それもそっか」
志麻は不服そうに携帯をしまった。
職場に戻る途中、歩きながらクミが聞いた。
「ねぇ、まさかそのあざとい系男子がユウキだってオチじゃないよね?」
クミはやっぱり察しがいい。
「だったら納得だわ、あざといのも納得。ホストだもんね、染み付いてるわ…そういう癖って取れないもんだね」
「やめてよ」
「佐和と付き合う資格ないってのも納得」
「何が?教えてよ」
「私、他人に聞いた噂話を勝手に他人に告げ口するのは嫌だから言わない。本人に聞いてみなよ。でも、私が聞いた噂話が本当だとしたら…あいつめっちゃ鬼畜だよ」
「なにそれ…どういうこと…」
「本人には忠告しといてやるべきだよ。クラブの子や客にバレるのも時間の問題だよ」
「バレたらどうなるの?」
「まぁ…わかんないけど、そこにはいられなくなるんじゃないの?」