妄想小説家panのブログ。

素人の小説です。

remember④

仕事は珍しく定時に終わった。

 

基本的に、定時に終わった時は晩御飯には時間も早いので郁人のいる店には寄らずに家に帰ることが多い。

 

残業で疲れた時にご褒美のつもりで通っている。

 

でも、クミの言うことがどうしても頭から離れなくて、帰ろうか店に寄ろうか悩む。

 

気持ち的には、郁人に想いを告げたことですっきりしていたし、なにより郁人と話すことが私の一番のストレスの発散だったから、出来ることなら毎日でも通いたいくらいだ。

 

でも、行くからには言わなきゃいけない。

 

クミの忠告を伝えないといけない。

 

 

少しだけ駅前で買い物をして、時間を潰してから私はやっぱりあの古い喫茶店の重いドアを開けた。

 

「いらっしゃい、え?早いね」郁人がいつもの笑顔で迎えてくれたから、私も自然にいつものように郁人の目の前に座る。

 

「今日は定時だった」

「そうなんだ、良かったね」

「うん」

「どうする?何か食べる?」

「…うん…まだちょっと早いから後にする。先にレモンスカッシュください」

「はい」

 

本当は暖かい珈琲かカフェオレが飲みたかったけど、冷たいドリンクは郁人が作ってくれるから、レモンスカッシュを選んだ。

レモンスカッシュはレモンを絞ったり、シロップと混ぜたり、工程が多いからそれを作っている郁人の綺麗な手を見ていたかった。

 

カラン…と氷の音がして、うっすらと白い濁りのある泡のたったグラスが私の前に置かれた。

 

「お待たせしました」

 

「ありがとう」

 

郁人はニコッとすると後ろを向いて、洗ったグラスを棚に戻していた。

 

私は、レモンスカッシュを1口だけ飲んで喉を潤してから、郁人の背中に呼びかけた。

 

「ねぇ、ユウキ」

 

一瞬、郁人の手が完全に止まった。

 

確信するしかなかった。

 

郁人はやっぱり、ユウキで間違いない。

 

どんな顔をして振り向くんだろう。

 

怖い。

 

でも、郁人は振り返らないで「なに?」と冷静に返事をした。

 

なんで知ってるのかとも言わず、しらばっくれるわけでもなく、平然と、開き直ったように言った。

 

 余計にそれが怖かった。

 

どんな顔をして聞いてるの?

どんな顔をして返事してるの?

 

私が何も言わないから、郁人が先に口を開いた。

 

「なにを知ってるの?」いつもの郁人とは違う、冷たい抑揚のない言い方に緊張する。

 

私は大きく深呼吸をして「私は何も知らないの」と伝えた。

 

「でも…ユウキがここにいるって知った人がいるから…それを伝えようと思って…」

 

「…そっか…わかった。ありがとう」

 

ようやく振り返った郁人は笑顔で、声も話し方もいつもの郁人に戻っていたけど、カウンターを拭くその手が細かく震えていた。

 

もしかしたら、郁人はいなくなるかも知れない。

 

もうここに来ても会えないのかも知れない。

 

そんなことを考えたら、最後に何か郁人の作ったものが食べたくて、立てかけてあるメニュー表をみるけど、手が震えて目も霞んで文字が読めなかった。

 

「ねえ、なに泣いてんの?」

 

私の空いたグラスにお水を注ぎながら、郁人が笑って言う。

 

「あのさ」

 

コトンと私の目の前にお水をなみなみと入れたグラスを置いて、郁人は

 

「俺、いなくならないからね」

 

そう言った。

 

「いつもと同じ。ここにいるから」

 

「本当?」

 

「本当。それとも、沙和さんは変わる?」

 

「なにが?」

 

「沙和さんの俺を見る目が変わるのが一番怖い」

 

「正直言っていい?」

 

「うん」

 

「郁人が自分のことを自分でちゃんと話してくれたら、私は郁人を信じる。他の雑音なんて聞かないよ」

 

私がそう言うと、大きくため息をついて下を向いて仕事をしながら考えこんだ。

 

「嫌だな…話すの…すごい嫌だ…だって嫌われるのわかってるのに…」

 

そう言ったきり、そこから郁人の手が空かなくなって、その日は何も話さずに終わった。

私もいつもなら閉店間際までいるのだけど、今日は来るのが早すぎたから早々に帰ることにした。

 

次の日は仕事が休みで、なんだかいろんな疲れが出てしまってお風呂にも入らずにテレビもつけたまんま寝てしまった。

 

起きたらもう、お昼前だった。

 

ゆっくり浸かりたかったから、湯船に熱めのお湯を溜めて、頭だけだして身体を温める。

 

お風呂から上がって、別に予定もなかったからドライヤーもかけずに濡れた髪のまま、またベッドに転がった。

 

クミに電話をかけてみる。

 

「もしもーし、どしたの?沙和」

 

「あのね、クミ…やっぱり志麻の言う通りだった」

 

「マジか」

 

「でも、何も話せなかったの」

 

「じゃ、もう知らなくていいじゃん。忘れたら?どうせ付き合えないんでしょ?」

 

「だけど…」

 

「そんなに好き?」

 

「うん」

 

「でも色恋営業はそいつの得意技だってさ」

 

「色恋ってなに?」

 

「わかりやすく言うと枕営業ってやつ。女その気にさせて貢がせるの。それでも信じるの?何も知らないのに?」

 

「うん」

 

「馬鹿だね、あんた」

 

 

 

 

土曜、日曜と殆ど家で過ごした。

 

私の悪い癖だ。

 

好きな人が出来ると、そのことばかり考えてしまって会いたくなって、他のことが手につかなくて、それで重くて捨てられてしまう。

 

休み明け、職場に行くと志麻とクミが喫煙所にいて、その前を通り過ぎようとすると志麻が喫煙所のアクリルの窓を叩く。

声は聞こえないけど、クミは「やめなよ」と志麻を諌めて手を引っ張る。

 

急いで煙草を消して、志麻は扉を開けて私を呼んだ。

 

「何?」

 

「私、昨日ユウキに会いに行ってきたのよ」

 

「だからなに?」

 

「なんで?あんた気に入ってたじゃん。まぁ、聞いてって。私の顔みてさ、めっちゃびっくりしてさ、ずっと怖い顔してんの。面白くない?なんか人の弱み握ったみたいで面白いよね、すっかり爽やかぶっちゃってさ」

 

「やめなよ、悪趣味なこと」

 

「あのねぇ…色恋でしくじって客孕まして死なせたような奴に情なんか必要ないでしょ」

 

「志麻!!!いい加減にしなよ!朝から下品だよ!」クミが志麻を引きずるようにして連れて行く。

 

そして、志麻を彼女の部署まで連れていくとクミはすぐに戻ってきた。

 

そして、蒼白な顔をしている私に

 

「…まぁ…そういうわけらしいよ」

 

と、ため息混じりに言った。

 

「志麻も…あいつにだいぶ色恋で貢がされたみたいね、馬鹿だからねあの子。私からしたらホストにハマる女なんて馬鹿だから、いくら酷い目に合っても知ったこっちゃないけど…沙和はやめときな。今は心入れ替えてるとしたって、そういうことが出来る奴だってことよ。人間の本質なんてそう変わらない」

 

他にもたくさん人がいる中で、私は人目もはばからず床にへたりこんでしまった。

 

クミは無理に立ち上がらせようとせずに、背中をさすってくれて、落ち着くまで傍でしゃがんでいてくれた。

 

「今だけじゃ駄目なの?なんで昔のことなんか必要あるの?もういいじゃん…ほっといてあげてよ…なんで?」

 

泣きながらそう言うと、クミは「沙和も馬鹿だね、ほんとに」と言った。

 

「沙和はそうでも、そいつはそうじゃないじゃん。自分で沙和と付き合う資格なんかないって言ってるんだから、本人がまだ引きずってるってことでしょ?…あのさ、もう今日は仕事サボって帰ろっか、どうせ仕事にならないでしょ?ちょっと待ってて」

 

そう言ってクミは、私が急に気分が悪くなったので休ませてやって欲しいと上司に伝えてくれて、クミも送っていくからと休みをもらった。

 

「2人とも、休みとか困るんだけどなぁ~だってさ、あのくそハゲ親父。いつも真面目に働いてるんだからいいじゃないのねぇ」

 

「ごめんね、クミ」

 

「いや、こっちこそごめんね…初めは知らなかったからさ…」

 

会社を出て、近くのファストフード店でクミが温かいカフェラテを頼んで、私の目の前に置いた。

 

「ありがとう」

 

「とりあえず泣き止んで」

 

「うん」

 

「どう見たって会社のお局さんが新人泣かしてる絵面だから困る」

 

「うん…ごめん…」

 

「志麻の言うことだけど」

 

「うん…」

 

「私が聞いた話はそんな簡単な話じゃなかったよ」

 

「どういうこと?」

 

「志麻はさぁ…自分が勝手に惚れ込んで相手にされなかったから逆恨みしてるとこあるっぽい。本当はもうちょっと複雑な話だって私は聞いたよ」