remember⑤
次の日、仕事に行くと私と志麻が男の取り合いで大喧嘩をしたという噂が飛び交っていた。
志麻は気性が荒くて気分屋で、みんな持て余すところがあったからみんなの同情は一手に私に注がれていた。だから幸い、突然に仕事を休んだことも咎められずに助かった。
とはいえ、嘘の話だから聞かれる度に誤解だと言うのだけど、クミは、面倒だし志麻はそんなことは気にしないから放っておけばいいと言った。
志麻は、一体どんなふうに郁人の前に現れたんだろう。
郁人は私だけじゃなくて、常連のお客さん達みんなに可愛がられていたし、みんな郁人の過去のことなんて知らないし知ろうともしない。ただ、今その目の前にいる郁人しか知らない。その環境の中に、いきなり過去を知る人物が現れて騒ぎ立てたとしたら、どんなに郁人が困惑させられただろうか。
あの店のマスターは知ってるんだろうか。
私にとっては志麻の行動は許せないけど、私が志麻の立場だったら?
《俺たちそんなんじゃないじゃん》
自分だけが特別な存在だと思わされていたのに、裏切られたとしたら?
全てはお金のためだとしたら?
そうなったら、私だって許せないしいつか出会ったら、志麻のような行動に出るかも知れない。
しかも、自分以外の人がそうやって同じように裏切られた挙句に自ら命を落としたとしたら?
そんなこと、郁人がするはずない。
そう思いたいけど、確かに郁人はユウキであることは認めているのだから、きっと志麻の言うことが正しい。
私は、郁人の過去なんてどうでもいい。
そもそも、郁人にはフラれたわけだから私がどう思おうと関係ないのだし。
ただ、私はずっと郁人の作ったごはんを食べたいし、ずっと笑顔でいて欲しいし、ずっとあの場所に居て欲しい。
郁人自身が過去に縛られて先にすすめないのだとしたら、取り払ってあげたいだけだ。
彼はきっと、もう昔の彼じゃない。
それは、間違いないと思う。
そうじゃないとしたら、私も志麻と同じだ。
ただ、馬鹿みたいに騙されてるのかも知れない。
「覗いてないで入れば?」
突然、背後から声をかけられて飛び上がる想いだった。
郁人のいる店に来てはみたものの、入る勇気が出ずに格子状の入口のドアから中を覗くことしか出来ずにいた。
来なければいいのに、どうしても何日もここに来ないでいると落ち着かない。
飛び上がりながら振り向くと、郁人が買い物袋を片手にぶらさげて立っていた。
「なにしてるの?」
「トマト買って来いって言われたから買い物行ってた…ていうか、最近来なかったじゃん」
「うん…ちょっと…」
「まぁ、仕方ないか…」郁人は袋を振り回しながら裏口につづく路地裏に入って行く。
「仕方ないってなに?」
顔だけをこっちに向けて「志麻と同じ職場なんだって?聞いたんでしょ?どうせ。あいつなんだね、沙和さんに俺の事話したの。じゃ、もう駄目じゃん」と私の目を見て言った。
「そういうわけだから。沙和さんの俺を見る目が変わるのは仕方ないってこと。もう来ないと思ってた」
「志麻の言ってること本当?」
「なんて言ってた?」
志麻の言ったことをそのまま言うのはどうしてもはばかられて、少し押し黙ってしまう。
それを見て、郁人は身体ごとこっちにむいて私の頭を肩に抱き寄せて耳元で囁くように言った。
「色恋営業が得意なユウキが、女騙して金まきあげてしまいには死なせちゃいましたって聞いた?」
低いけれど、溶けるような甘ったるい声をわざと出して、そう耳に囁かれて、ゾクッとした。今、私の耳元で囁くのは郁人ではなくて、ユウキだった。
「ふざけるのやめて」
そう言って、郁人の身体を押しのけようとぐっと押して顔を見上げた時の郁人のその顔が、言葉とは裏腹にこれまで見たこともないくらい悲しそうで、左の目頭からひと粒、ポロッと涙が零れ落ちようとしていた。
そして今度は、両方の腕で私を抱きしめて
「…俺のために悲しい顔すんのやめて。こんな奴、もう忘れなきゃ駄目だよ」
「郁人…なんで泣くの」
「泣いてない」
「泣いてるってば」
郁人は私の肩に顔を伏せるようにして、腕に少し力を入れる。
「もう会えないかと思った…」そう言った時、郁人の両手の指が、服の上から食い込むくらい強く私の背中を掴んだ。
冷たく私を突き放そうとして忘れろと言ったくせに、今度は会いたかったと泣く。
私は、騙されているのかも知れない。
どっちが本当の郁人なの?
私は、冷静に自分に問いかけようどするけど、郁人を押しのけることが出来ないのは、本当はもう答えが出ているからなんだと思う。
今の私の日々の中で、郁人がいないことはどうしても考えられなかった。
何度、繰り返して考えても、それは変わらなかった。