妄想小説家panのブログ。

素人の小説です。

remember anotherstory【蓮⑦】

次の週末は、亮太の家に引っ越すための手伝いをしてもらうことになった。とはいえ、たいして大きな荷物もないので毎日細々とちょっとずつ片付け始めて、金曜日の夜にはほとんど荷物がまとまっていた。

 

ただ、住んでいる部屋を引き払って友達の家に引っ越すということは親にも報告はしたけど、いろいろと根掘り葉掘り聞かれて面倒だった。

 

住所は教えたけど、友達と住むんだから勝手に来ないでとはしっかり伝えた。

 

亮太との同居生活は、意外にも喧嘩もそんなに無くて、今まで通り平日はあまり干渉しあわず、一緒に食事が出来ればするし、一緒に寝られたら一緒に寝る。

週末は、行きたいところがあれば一緒に出かけるし、ずっと2人で部屋にこもって過ごす時もあった。

 

一緒に出かけるのは楽しかったけど、僕の趣味にも嫌がりながらも付き合ってくれたりしたけど、外では手もつなげないもどかしさもあった。

亮太は手を繋いでもいいと言うけど、僕はまだそこまで割り切れていなかった。

 

そしてもうひとつ、僕にはクリアしないといけない問題があった。

 

両親から、実家に戻るようにと言われていることだ。

 

卒業したら帰って自営の父を手伝う代わりに、大学生のうちは自由にさせてもらうという約束だった。

卒業まであと少し猶予はあったけど、つい先日、父が体調を崩したことがきっかけで不安になったんだろう、早く帰ってきて仕事を覚える準備をして欲しいと言い始めた。

姉も、体調に不安を抱える父と、母をふたりで暮らさせるのは心配だから戻って欲しいと言う。

 

父の仕事を継ぐことは嫌ではなかったし、子供の頃はそれが憧れでもあった記憶があるし、

両親のことが心配な気持ちも当然ある。

 

でも今は、どうしても帰りたくない。

 

例え帰ったとしても、亮太と別れるわけではないけど、実家で暮らすようになれば嫌でも親の干渉を受けることになるし、そうなったら僕達はこれまでのように自由にいられるだろうか。

 

そんなある日、学校の友達の康平に呑みに誘われて行くと、最初から嫌な予感はしていたけど、いわゆる合コンの人数合わせというやつだった。

僕がそういうことに誘われても断るのを知っていたから、騙されて付き合わされたようなものだ。

 

「最悪、騙したな」

「ごめんって」

 

そもそも人見知りなところがあって初対面の人間と盛り上がることなんて苦手だし、みんなで盛り上がっているのを見ているのも退屈で、しかも親のことでもずっと悩んでいたのを少し忘れたい気持ちもあって、ついその日は飲みすぎてしまう。

 

家に帰った途端に玄関で倒れ込んで、亮太に叱られた。

 

「何やってんの?そんな楽しかったの?」と、僕を抱き起こしながら嫌味を言う亮太に、僕はカチンと来て、思わず突き放した。

 

「楽しかったわけないじゃん、ちゃんと言っただろ?無理に付き合わされたって」

 

「だからって立てなくなるくらい酔って女の香水の匂いさせて帰って来るなよ!バカにしてんの?」

 

亮太も普段なら、そんな因縁めいた焼きもちなんて妬かないのに、虫の居所が悪かったのかも知れない。

言い争いになって、「もういいよ!」と僕は力を振り絞って部屋を出た。

 

勢いよく飛び出したせいで、非常階段を降りて外に出た頃には目が回って動けなくなって、建物の影に隠れて吐いた。

吐いたら少し楽になったから、僕は康平に電話してその日は泊めてもらうことにした。

 

「なにお前、彼女と住んでたの?」

「んーまぁ…そんな感じ…」

 

康平は、今日の合コンに無理に付き合わせたせいで喧嘩になって追い出されたのだと察して「悪かったな」と謝って来た。

 

「ほんとだよ…どうしてくれるんだよ」

 

そして僕は、康平の部屋で倒れ込んで、そのまま眠ってしまった。

上着のポケットで、携帯が何度も震えていたことにも気づかなかった。

 

朝になって、康平に「ずっと電話鳴ってたけど大丈夫?」と言われて、慌てて携帯を探す。

少しまだ頭が痛かったけど、寝たら気持ちの悪さはなくなっていた。

 

1時間おきに亮太から数回の着信が入っていた。

 

「お前の彼女、メンヘラだな」

 

康平が笑うのも気にしないで、部屋の外に出てかけ直す。

よくよく考えてみれば、完全に僕が悪い。

 

「亮太?ごめん寝てた…」

「どこにいんの?」

「友達のとこに泊まった」

「そっか…だったらいいよ。外で寝てんのかと思った。じゃ、気をつけて帰って来なよ」

 

亮太は素っ気なく電話を切った。

 

「康平、ありがとう。帰るわ」

 

「許してもらったの?」

 

「んーまだ駄目っぽいけど…とりあえず帰ってもいいみたい」

 

帰る足取りは重かった。

 

帰って謝らなきゃいけないけど、さっきの電話の感じだと許してもらえるまで時間がかかりそうだ。

 

だけど、帰らない可能性なんて1%もない。

 

「…ただいま」

 

部屋のドアを開けて、恐る恐る声をかけるけど返事はない。

 

「いない?亮太?」

 

リビングのテレビがつけっぱなしで、でも亮太の姿がなく、開け放たれた寝室を覗く。

昨日の夜に見た服装のまま、亮太がベッドの上で携帯を握ったまま寝息をたてていた。

 

許してくれないかもとか、まだ怒っているのかもとか、そう思っていた僕が恥ずかしい。

 

たぶん、眠らないで連絡の取れない僕を心配して、帰りを待っていてくれたはずなのに。

 

「ごめんね、亮太」起こさないように隣に寝転んで、僕も一緒に眠った。

 

僕は今が、これまでの人生で一番幸せだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「あのさ、親に亮太のこと話してもいいかな」

 

ある日、仕事から帰ってきた亮太に、親から実家に早く帰れと言われていることを話した。

 

「なんて話すの?」

 

ネクタイを緩めて、シャツの袖のぼたんを外すその仕草が好きで、僕はそれを見ながら話す。

 

「一緒に住みたいからまだ帰れないって」

 

「男と付き合ってるって言うの?」

 

「…うん」

 

「やめとけば?そんなこと言うの。バレるまでほっとけばいいよ」

 

「でも、そうじゃなきゃ帰らなきゃいけなくなるよ…会えなくなるわけじゃないけど、ちょっと遠いよ…」

 

「ダメだって言われたらどうすんの?…まぁ、100%言われると思うけど」

 

「だったら、追い出されて来るよ」

 

「親、捨てられるの?」

 

「仕方ないと思う…だって、どうせいつかは言わなきゃいけないんだよ。このままだったら、仕事を継いだら、さぁ次は結婚しろ、孫見せろって言われるの目に見えてる。そしたら俺、一生、自分を騙して生きなきゃいけなくなるよ」

 

亮太は深いため息をついて僕の隣に座って、僕の顔も見ないで話し始めた。

 

「蓮が初めてここに来たときに、本当は建築デザインの仕事したかったって言ったでしょ?覚えてる?」

 

「うん、覚えてるよ」

 

「本当は一度、就職したんだよね…希望してた会社に入れたんだけど、そこで…」そこまで言うと一度大きくため息ををついてから続きを話した。

 

「そこで、好きな人が出来た。先輩だったんだけど…すごく好きで…でもずっと隠してたんだけどちょっとしたことでバレちゃってさ。それまではずっと可愛がってくれて仲良くしてくれてたのに、口も聞いてくれなくなったよ」 

 

話すうちに、亮太の手が震えて、僕はそれを止めてやりたくて手を握った。

 

「それで、仕事に行けなくなっちゃって親が…まぁ、心配したんだろうけどあまりにうるさく言うもんだから、言ったんだよね、俺も。そしたら、家にすらいられなくなっちゃった」

 

「…そうなんだ…」

 

「だから、もう俺は最初から人に言うようにした。あとで拒絶されるくらいなら最初から近づかないでいてくれた方がいいしね。だから、蓮がちゃんと言っておきたい気持ちもわかるけど…でも…もしやり直せるんだったらもう次は俺は言わないかな、親には」

 

「…もし親に言ってダメでも亮太がいてくれたらいいよ」

 

そうは言ったものの、なかなか切り出すタイミングもなく、ただ日々はいつものように過ぎていった。

 

そのうち、亮太の言う通りバレるまで放っておけばいいのかも知れないと思う。それがそのタイミングなのかも知れないと。

 

 

 

 

姉から、姉の家で舞香の誕生日のお祝いをするから来ないかと電話があった。

きっと、父と母も来るだろうし、会えば帰ってこいと催促されて、最悪の場合は泣き落とされるのがわかっていたから、本当なら断る理由を必死に考えるところだ。

 

でも、本当かどうかは知らないけど、姉が言うには舞香が来て欲しいと言っているらしい。

 

そう言われてしまったら、なかなか断るわけにも行かず、僕は渋々だけど姉の家に行くことにした。

 

裕太と舞香は、僕が来ると喜んで遊びたがったのでそれが有難かった。子供たちと遊んでいたら、座ってのんびり真面目な話も出来ないからだ。

 

僕は、舞香に舞香の背丈くらいある大きなクマのぬいぐるみをあげて、舞香は飛び上がるくらい喜んでくれたけど、姉に置き場に困ると叱られた。

 

一通り、お祝いを終えて僕がもう帰ろうとすると舞香と裕太に引き止められたのでまだ一緒に2階の舞香の部屋で遊んだ。

すると、裕太が眠くなって機嫌も悪くなって来て僕は姉を呼びにリビングに降りた。

リビングのドアを開けようとすると、姉と姉の夫と、僕の両親とが僕の話をしていたので、入りにくくなる。

 

両親は、早く実家に帰らせたいがなかなか言うことを聞いてくれないと言い出した。     

「彼女と住んでるんだっけ?」姉の夫がそう言うと「友達なんだって」と姉が答えた。

 

またその話かと、うんざりして話を止めさせようとドアのノブを持つ手にぐっと力を入れた時、姉の夫が

 

「もしかして、ゲイなんじゃないの?」

 

と、高らかに笑いながら言った。

 

それに釣られて、両親や姉も「ちょっと冗談やめてよ!」「言っていいことと悪いことあるでしょ?」と笑いだした。

 

怒りからか、辱められたからか、僕は自分の顔が耳まで紅くなるのがわかった。

 

震える手でドアを開けると、みんな笑った顔のままこっちを向いた。

 

「あぁ、蓮くんもしかして聞こえてた?ごめんごめん」と姉の夫が言うのを無視して、僕はダイニングの空いている席に座った。

 

「あのさ、何がそんなに面白いの?」

 

僕が真面目な顔でそう切り出したから、みんな笑うのをやめて黙り込む。

 

「ちょっと…お兄さんは2階の子供たち見てて貰えますか?」と、姉の夫を部屋から追い出した。姉の夫は気まずい雰囲気から逃れられるのが嬉しかったのか、すぐに部屋を出て足取り軽く子供たちの部屋に向かった。

 

「ごめん、蓮。怒ったの?」姉が顔を覗き込む。

 

「怒ってるって言うか…まぁ…いいきっかけだから話すけど、お兄さんが今言ったこと、本当だから」

 

僕は、自分の震える手を隠して、出来るだけ冷静を装ってそう言った。

 

「なんのこと?」

 

黙っている両親の代わりに、姉が僕に問いかける。

 

「俺は、男の人しか好きになれないから。だから、お父さんやお母さんの期待には添えないし、今も一緒に住んでる人と付き合ってる。もちろん、男の人だよ」

 

なにより普通であることが一番だと、僕にこれまで言い聞かせて育てて来た、厳しくはないが無口な父はその僕の話を黙って聞いていたし、母は明らかに動揺して姉と顔を見合わせていた。

 

「だから、家には帰りたくない」

 

「なに言ってるの…?蓮…冗談でしょ?そんなこと言ってまで帰りたくないの?馬鹿じゃないの?」

 

姉がまた、両親に代わって僕に窘めるような口調で言った。

 

「冗談でそんなこと言ってどうなんの?」

 

「そんなこと、はいそうですかって言えるわけないでしょ?」

 

「わかってるよ、わかってるから今まで言えなかったんだろ?」

 

「信じられない…そんなこと有り得ない」

 

一切、認めようとしない姉との話は平行線で、母はずっと視線で父に助けを求めていた。

 

父は、しばらく考えこんだ後にようやく口を開いて

 

「まぁ…そうだと言うなら仕方ないんじゃないか」と言った。

 

姉が「お父さん、認めるの?」と金切り声をあげる。

 

「認めるも認めないも、蓮がそうなんだから仕方ないだろ…かと言って理解するかどうかは別の話だ。今の父さんたちには受け入れ難い話だと言うのは、わかるよな?」

 

「もちろん」

 

「父さんたちは親だから、子供が幸せならそれでいいんだけどな…まぁ、難しい問題だな。後々、時間をかけて父さんたちが理解しないといけないのかも知れない。ただ、今は理解し難いとだけ思っておきなさい」

 

「…わかった」

 

少なからず、理解する方向でいると言った父に、母は逆らわず、姉だけは頭を抱えて

 

「私は嫌よ、そんなの。気持ち悪い。もう裕太と舞香にも触らないで」

 

と、嫌悪感を丸出しにして言い放った。

 

両親はそんな姉を諌めたけど、僕は立ち上がって「わかったよ、もう2度と来ない」と言って、裕太や舞香に声もかけずに姉の家を出た。

 

悲しいのか、怒りなのか、それとも少しは父が理解を示そうとしてくれたのが嬉しかったのか、なんとも言えない感情が湧いていた。

 

親から縁を切られるようなことにはならなかったけど、裕太と舞香に触れるなと言われたことが一番辛かった。

 

泣きそうになりながら駅まで歩いていると、亮太から電話がかかって来た。

遅くなるようならどこかまで迎えに行ってやると言われていたのを思い出した。

 

「蓮?今どこ?迎えに行かなくていい?」

「…亮太」

「なに?どうした?」

「迎えに来て…早く帰りたい」

 

亮太の家から姉の家の最寄り駅まで、車で1時間近くかかる距離だったけど、亮太は急いで来てくれた。

待つより電車で帰った方が早かったけど、早く亮太に会って話して慰めて欲しかったし、何より亮太の声を聞いて泣き出してしまったから恥ずかしくて電車には乗れなかった。

 

泣いて話す僕の手を、亮太は運転しながらぎゅっと強く握って聞いてくれた。

 

「危ないよ、亮太」

「大丈夫」

 

家に着いても、僕がなかなか泣き止まないから、亮太はずっと隣に座って、背中を撫でたり、手を握ったりして、僕が落ち着くのを待ってくれた。

 

でも、亮太はもっと辛かったとわかる。

 

僕には亮太がいるけど、亮太には誰もいなくなった。

 

好きな人にも親にも拒絶されてひとりになった亮太が、どんな想いをして来たのか考えると、自分の甘さに腹が立ったりもした。

 

 

 

 

remember anotherstory【蓮⑥】

金曜日の夜、アルバイトを終えてから、意外にも僕は初めて亮太の家に行った。

 

亮太の家は、駅からは少し距離があるので僕がひとりで行くには少し不便だった。亮太が言うには、少し不便でも同じような家賃で部屋が広い方がいいからだそうだ。

 

印象的だったのは、部屋のテレビの横には背の高い本棚があって、歴史的なものから近代的な建築物の写真集や書籍がたくさん詰まっていた。

 

「こういうの好きなんだ」僕が一冊を手に取って見ていると

 

「昔はね」

 

「今は違うの?」

 

「建築デザインの仕事をやりたくて勉強してたけど、結局は仕事に出来なかったから諦めた」

 

「そうなんだ」

 

「まぁ…今は今で楽しいけどね」

 

そう言って僕から本を取り上げて、元の場所にしまった。あまり、触れられたくないのかと思って、それ以上は何も聞かなかった。

 

「どうする?明日、どっか行く?」

 

亮太はそう言ったけど、先日の一件から亮太が精神的にまいっているのを知っていたから「明日は家で映画いっぱい見ない?」と提案した。

 

「映画?」

 

「怖いやつ。めっちゃ借りてきたんだよね、友達から」

 

学校用のリュックから、ホラー映画マニアの友達から勧められた…というより押し付けられて、ひとりでは観られなかったDVDをあるだけ出した。

 

「なにそれ、なんでそんなにあるの?」

「友達が貸してくれるんだけど、ひとりで見るの嫌じゃん。だから、明日は引きこもってこれ見ようよ」

「今日から見ないと全部見れないね」

「いいじゃん、そうしようよ…あ、ダメだ…やっちゃった…やっぱり観るのやめよう」

 

僕はここまで話して、やっと気づく。

 

身近で殺人事件があって、それで気持ちが落ち込んでいる人間に怖い映画を見せるなんて、一番やっちゃダメなやつじゃないかと。

 

不思議そうな顔をして僕を見ていた亮太は、僕の考えたことを察して吹き出すように笑って「いいよ、一緒に見よう。それとこれとは別だろ?平気だよ」と言った。

 

「蓮は優しすぎるよ。ね、今からこれ見ようよ」

 

亮太は、DVDを1枚選んでデッキにセットする。

 

「結構、こういうの得意なんだけどね…蓮はダメなんだ」

 

「うん、苦手」

 

「じゃ、なんで借りたの?」

 

「無理やり貸してくるから困ってるんだよ」

 

映画の序盤から、僕は亮太の隣にくっついて膝を抱えて見ていたから、時々、亮太はそれを見て笑う。

 

「明日は怖がり克服の修行だね」

 

怖い映画を見ているのに、亮太はずっと僕を見て笑っていた。

 

「ひとりの時に怖いの思い出したらどうすんの?お風呂はいれる?」

 

「ちょっとしばらく入らない」

 

「やめろよ、汚いなぁ」

 

「だって怖いじゃん」

 

「自分が持ってきたんだろ?」

 

「だって、亮太とだったら観られると思ったんだよ」

 

「ねぇ、蓮」

 

「なに?」

 

「俺たち、一緒に住まない?」

 

突然の提案に驚いて顔をあげると、急に画面から大きな効果音がして、肩がビクッとする。

 

「こうやってさ、週末に一緒にいるとさ…ひとりになった時にすごく寂しいんだよね、今までひとりだったから当たり前なのにさ」

 

「うん…」

 

「たぶん、一緒に住んだら喧嘩とかもすると思うけど」

 

「うん、絶対する」

 

「それでも、ずっと一緒にいたいなって思うのおかしい?」

 

そう言って、亮太はふいに顔を背ける。

 

「自分で言って照れてんの?亮太」

 

顔を背けたまま、手を伸ばして僕の頭をくしゃっと撫でて

 

「ムカつくんだよ、お前。本当にムカつく」

 

「なんでだよ」

 

「そばにいてよ、蓮」

 

そう言ってまた僕の方を向いて、僕の頭を胸に抱えて髪を撫でる。

 

「お前から好きだって言ったのにずるいよ。好きだよ、蓮」

 

「…まだ映画途中だよ」

 

「観させない」

 

そう言って耳を軽く噛む。

 

頭の芯が痺れるみたいになって、言葉にならない声が漏れて、必死に誤魔化そうとするけど、亮太は面白がって何度もそれを繰り返す。

 

そして僕の耳には、テレビの画面からの効果音も、悲鳴も、何も聞こえなくなった。

 

 

 

「結局、あれってどんな結末だったの?」

 

僕の後ろから腕をまわして、亮太が眠そうに聞いた。

「見てるわけないじゃん…誰のせいだよ」

「蓮が気持ちよさそうな声出すからだろ?」

 

「あのさぁ、さっきの一緒に住もうって話、本気で言ってる?」

 

「うん、本気」

 

「でも、一緒に住み始めたら素っ気なくなるとか嫌だよ。ちゃんと構ってくれなかったら嫌だから」

 

そう言うと、急に亮太が黙ったから振り返って顔を見ると、嬉しそうな顔で僕の顔をじっと見返して「素直になったね、蓮」と言った。

 

「亮太のせいだ」

 

 

 

 

 

 

 

 

remember anotherstory【蓮⑤】

でも、亮太の唇が次は僕の首を這った時、亮太の息が少し荒くなるのを感じて、少し怖くなって手が震える。

 

怖かったけど、離れたくはなくて、思わず腕にしがみついた。強くしがみつきすぎて、右の手首が鈍く痛んだ。

 

「怖い?」震える手に気づいて、亮太が聞く。

 

僕が素直に頷くと「ごめん…」と言ったけど、僕を抱きしめる力は余計に強くなった。

 

「本当は、蓮のことさ…まだよく知らないじゃん。だから、好きって言われても正直どうしていいかわかんなくて」

 

「うん…」

 

「でも、昨日…一瞬だけど蓮がどこか行っちゃって、心配して、仕事休んででも迎えに行って顔を見て安心したくて…俺きっと蓮のこと好きなんだって思ったんだ」

 

「ほんとに?」

 

「本当に。なのに、そんな格好で出てきちゃ駄目じゃん…」

 

耳元で吐息混じりにそう言われて、僕も亮太の肌に触れたくなって、服の裾から背中に手を入れてみる。

 

「触りたい?」

 

僕がその問いに頷くと、その白いパーカーを脱いで、乱れた前髪の間から僕の目を見る。

 

その目は優しかったけど、僕は怖くて、ずっと見ていられなくて、目を瞑って頷いて、その背中に手を置いた。

 

亮太の背筋に沿って撫でていると、亮太は気持ちよさそうに吐息を漏らしながら、また僕の口を塞いで、生温かい舌を入れる。

 

「いいの?蓮…初めてなんでしょ?」

 

もちろん、こんなことは初めてだったし、どうすればいいかもわからないし、急に亮太に男っぽさを感じて戸惑ったけど、そのうち頭の中はもう真っ白になって、僕はまた素直に頷く。

 

でも、亮太はその僕の怯えを感じて気遣いながら、優しく僕を抱いた。

 

 

苦しくて、何度も思い切り亮太の背中や腕を引っ掻いて、その度に亮太は動くのをやめて「大丈夫?もうやめよう…」と言うけど、僕は離して欲しくなくて、その度に嫌だと言って強くしがみついて困らせた。

ゆっくりと長い時間をかけて、僕たちは抱き合った。

 

「亮太…好きだよ」

 

いつの間にか僕の怖さも震えもなくなり、亮太の重みも、汗ばむ首や背中も、僕をしっかりとつかむ手も、悩ましげに漏れる声も、今は全て僕のものだと、僕の知らなかった独占欲が満たされた。

 

 

「ごめん…蓮」

亮太は、まだ呼吸が整わない僕の、痛くない方の手を握って言った。

 

「なんで謝るの?…悪いことしてるんじゃないだろ?」

 

でも、信じられないくらい身体はだるくて重くて、今すぐにでも瞼が落ちて来そうなくらい眠くなった。

 

「もう寝な」

亮太は手を離して身体を起こして、脱ぎ捨てた服を着た。

「蓮のは?なんか着ないと風邪引くよ、どこにあるの?」

僕は少し悩んで、ベッドの頭の方の壁のハンガーにかけたトレーナーを指さすと、亮太が手を伸ばして僕に渡した。

「ありがとう」

「着られる?」

「大丈夫…ていうか、子供じゃないんだから    」

僕が笑ってそう言うと、亮太はホッとした顔をして僕の髪をくしゃっとして「早く着ないとまた襲うぞ」と笑った。

 

服を着て、でもどうしても眠くて、でもまたベッドに転がるとそのまま眠ってしまいそうだったから、顔を洗いに行こうと立ち上がった。

思い切って立ち上がると 、一瞬だけ立ちくらみがして、壁に手をつく。

 

「もうおとなしく寝てろって」

亮太が僕の手を引いて、また座らせる。

 

「だって寝て起きていなかったら嫌じゃん」

「なにそれ、なに可愛いこと言ってんの?いいから寝ろってもう」

「帰らない?」

 

亮太は時計を見た。

時間はまだ夜の8時で、亮太は少し考えたあと「明け方までいるよ」と頭を撫でた。

 

「さすがに明日もサボるわけにいかないから、着替えに帰らないとね。帰る時には起こすから、しっかり寝な」

 

その優しくて穏やかな声に誘導されて、僕は返事もせずに目を瞑って、深い眠りに堕ちた。

 

 

 

ピピピ…と小さなアラーム音に気づいて、僕は目を覚ました。

目を開けたすぐ傍には、ベッドに頭だけを置いて眠っている亮太の顔があって、その手に握られた携帯からアラーム音がしていた。

そっと携帯をその手から外して音を止める。

 

「亮太、起きて」

 

窓の外はまだ少し暗い。

 

「起きて」

 

2回目に亮太の身体を揺すると、ゆっくり目を開いて忙しなく瞬きをした。

 

「…おはよ、蓮」

「おはよう」

「大丈夫?元気?」

「うん、大丈夫」

「じゃ、帰るけど…なんかあったら言いなよ」

「わかった」

 

僕から受け取った携帯と、テーブルに置いた車の鍵をポケットに入れて「じゃあね」と、亮太は手を振って部屋を出ていった。

 

しばらくして、夜明け前のまだ静まり返った外から、車のエンジン音が遠ざかって消えた。

 

僕はもう一度、寝転んでみるけど、昨日は子供みたいに早く眠ってしまったからさすがにもう眠れない。

 

でも、ベッドから起き上がったら、昨日の余韻が消えてしまうみたいで嫌だった。

いつまでも、亮太に抱きしめられているような感覚を失いたくなくて、僕はまたベッドに潜り込む。

 

亮太の柑橘系の香水の匂いが、まだそこに残っていた。

 

 

 

 

 

「なんか、駅前で殺人事件起きたっぽい」

 

アルバイトの最中、今日はやたらとパトカーの音が騒がしいと思っていたところに、買い出しに出ていた店長が帰って来てそう言った。

 

「え?マジですか…怖」

「俺も野次馬に聞いただけだけどさ、血の海だったってよ」

「誰が殺されたんですか?」

「若い男の子だってさ」

 

 

翌朝のニュースで、少しだけその事件に触れられているのを目にした。

 

僕とあまり歳の変わらない若い男が、元交際相手に刺されて亡くなったという衝撃的な話だった。

 

朝食を食べながらそんなニュースを見て、少し食欲がなくなってしまって片付けようとした時に亮太から電話があった。

 

「今、駅前の殺人事件のニュース見た?」

「見たよ、なんで?」

「あれ、刺した方が俺と同じ会社の子なんだよね」

「嘘でしょ?」

 

「びっくりして…めっちゃ手が震えてて…とりあえず落ち着きたくて蓮に電話した」

 

「大丈夫?…じゃ、違う話しよ」

「なんの話してくれる?」

「そうだなぁ…昨日、うちの店長が滑ってこけて頭にでっかい絆創膏貼ってた話する?」

「なにそれ、しょーもないしどうでも良すぎるんだけど」

 

緊張して震えていた亮太の声が、少し穏やかになって笑った。

 

亮太は、堂々として強く見えて、実はすごく弱い。

 

すぐに体調を崩すし、緊張したらお腹が痛くなるし、不安になるとこうやって僕に電話をかけて来る。

 

自分が同性愛者であることも隠さずに公言しているけれど、それも、後になって傷つかなくて済むように、初めから人との関係にバリアを貼るためのものだと思っている。

 

初めは、その強さに憧れを抱いていたけど、今はその隠した弱さが愛おしいと思う。

 

「蓮、ありがとう」

「ちょっと落ち着いた?」

「うん…仕事行ってくるよ」

「週末、泊まりに来る?」

「迎えに行くから、こっちに来る?」

「いいの?じゃ、そうする」

 

普段、学生の僕と社会人の亮太とでは生活のリズムが全く違うから、平日はお互いにあまり干渉しないようにして、週末に何も予定のない時には一緒に過ごすようにしていた。

 

どこかへ出かけることもあれば、お互いの趣味に付き合わせたり、ただ部屋でのんびりと過ごしたり、亮太は案外すぐにカッとすることもあって、まだまだ子供な僕と喧嘩することもあったけど、僕にとってはもう亮太がいないことは考えられなかった。

 

その日、僕はアルバイトが終わってから亮太に電話をかけた。

 

「大丈夫だった?今日」

「うん、まぁ…大騒ぎだったけどね…そこかしこで興味本位で聞かれるし大変だった」

「そりゃそうだね」

 

「でも、やっぱり蓮の声を聞いてて良かったよ。そうじゃなかったらちょっと辛かったかも」

 

「それなら良かった」

 

「心配してくれたんだ」

 

「まあね」

 

 

そしてきっと、亮太にとっても僕がいないといけないんだと思えるようになっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

remember another story【蓮④】

5日ほどして、僕は神野に自分から連絡する勇気もないし、連絡する理由も思いつかないし、ただまた会いたい気持ちだけを持ち続けて過ごした。

 

姉が退院の日を迎え、僕も手伝いに駆り出された。

「れんにいちゃん」

やはり一緒に連れてこられて退屈していた裕太と、その姉の舞香はすぐに僕に飛びついてきた。

 

「悪いけど、その子たち見てて」

「そのつもり」

 

姉が胸に抱えた赤ちゃんは、前に見た時よりふっくらとして黒い瞳をキョロキョロと動かして、人間らしくなっていた。

 

「れんにいちゃん、こーえんいこ」

「いいよ、行こう。舞香もおいで」

 

裕太に比べて、舞香は少し遠慮がちなところがあった。お姉ちゃんだから、更にまた弟が増えたから、小さいなりにしっかりとしなきゃいけないと思っているみたいだった。

 

神野が教えてくれた公園に着くと、やっぱり裕太はすぐに駆け出して、舞香は「あぶないよ!裕太!ダメ!」と追いかけようとした。

 

「舞香」

僕は舞香に声をかける。

「裕太はちゃんと見てるから大丈夫。今は舞香は舞香のしたいことしていいよ」

そう言ってあげると、パッと顔が明るくなって「うーんと...ブランコしたい!押してくれる?」と僕に言った。

「いいよ、ちゃんと自分のしたいこと言わなきゃ駄目だよ」

 

《なんで自分の感じた気持ちに正直じゃいけないの?》

 

ふと、僕が神野に言われた言葉が、あの時と同じ景色の中でフラッシュバックした。

 

彼が今、ここにいたらきっと舞香に同じことを言うんだろうなと思った。

 

舞香のブランコを押しながら、ジャングルジムに登る裕太に「気をつけろよ」と声をかける。

 

そしてまた、裕太に手を差し伸べて見守っていたあの綺麗な横顔を思い出す。

舞香には偉そうに言っておいて、僕は彼に会いたいというひと言も言えないでいる。

 

「どしたのー?れん兄ちゃん」

敏感な舞香は、僕の方に振り返る。

「ん?なにもないよ、大丈夫」

「私も裕太とジャングルジム行く。ブランコ楽しかったもん」

「いいの?」

「うん、裕太と遊びたい」

両手でゆっくりとブランコを止めてやると、舞香はジャングルジムに走り出した。

 

ジャングルジムで遊び疲れた2人に、自販機で飲み物を買ってやって少し休憩した。

裕太は地面に座って、砂に絵を描いて遊ぶ。

「舞香、学校楽しい?」

ジャングルジムの少し高いところで座っている舞香に、飲み物を開けてあげて渡しながら聞いた。

「楽しい。舞香、好きな男の子いるのー」

「そうなんだ、どんな子?」

「足が早いから好き。顔はーあんまかっこ良くないけど好き」

「めっちゃ好きなんだね」

「うん、大好き」

舞香は無垢な笑顔ではっきりとそう言う。

「れん兄ちゃんはー?」

「なに?」

「好きな子いるー?」

僕は少し苦笑いをして「うん、いるよ」と答えた。

 

「大好きなの?」

 

「...うん...大好きだよ...」

 

「一緒だねー舞香と」

 

「そうだね、一緒だね」

 

舞香の純真な言葉に少し涙が出そうになって、慌てて顔をそらして目尻を指で拭った。

 

ずっと、誰かを好きになっても自分自身でその気持ちに蓋をして、もしかしたら一度だって口に出して言ったことなんてなかったし、今までなら舞香にすらきっと「いないよ」と答えていたと思う。

 

「裕太、そろそろ帰ろう」砂遊びしている裕太に声をかけると、予想通り「いや!」と言った。

 

「でも、もうママが帰っちゃうよ」

裕太の傍に座って言い聞かせようとすると、裕太はいきなり立ち上がって公園の外に向かって走り出した。

 

「裕太!」

 

裏通りの一方通行の狭い道を、病院から出てくる車がひっきりなしに走っていて、ちょうど裕太が飛び出した時には、その先の病院の駐車場からワゴンの配送車が出てきて加速したところだった。

 

裕太に追いついて、抱きかかえたところまでは覚えてる。

 

 

 

 

 

 

目を覚ますととにかくいろんなところが痛くて、一番最初に目に飛び込んできた蛍光灯の光が眩しくて目をしかめた。

 

自分が今、どこにいてどんな状況に置かれているかなかなか理解出来なかったけど、僕が目を覚ましたことで周りが慌ただしく動いて、姉の顔を見た時にようやく、自分が車に轢かれたことを思い出し、血の気が引く思いがした。

 

「裕太は???」

 

「裕太は大丈夫、無傷よ」

 

そう聞いて、ホッとして身体中の力が抜けた。

 

「ありがとうね、蓮」

姉が気丈に振る舞いながらも、充血した目で僕に言った。

 

「いや、俺がちゃんと捕まえてなかったからごめん...舞香は?」

「舞香はちょっとびっくりしちゃって、さっきまでメソメソしてたけど大丈夫。ちなみにお母さんはここにいてもパニックになるだけだから、子供たち連れて帰ってもらってる」

 

「それで、俺は大丈夫なの?めっちゃ痛いんだけど」

「あんた若くて良かったね、打撲と脳震盪で済んだんですって。でも頭を打ってるから1日入院するみたいよ」

「今日、バイトなんだけど」

「今日っていつよ、もう夜になってるけど連絡して間に合う?」

「俺の携帯は?」

 

枕元のテレビ台の上に置いてくれてあった僕の携帯は、画面に大きな亀裂が入っていた。

時間はもう夜の10時を過ぎていて、とてもじゃないが今から連絡したって遅い。ため息をついていると、姉が「電話して説明しておいてあげるからじっとしてなさい」と携帯を取り上げて出ていった。

 

とりあえず僕は、自分のことより裕太を助けられて良かったと、心の底から安心した。

 

電話を終えて帰ってきた姉が「着信入ったけど取らなかったからね」と僕に携帯を渡す。

そして「ここでかけ直しちゃ駄目よ」と釘を刺す。

 

「わかってるよ」そう答えて通知を確認すると、姉が電話をかけに行った間に2件、神野からの着信があった。

 

こんな時に限って...と、また僕は落胆してため息をつく。

 

「電話かけに行っていい?」

「駄目、今日はじっとしてなさい」

「...じゃ、ちょっとトイレ...」

「トイレいく振りして電話するんでしょ?駄目!」

「いいじゃん、お願いします!お姉様!」

僕が必死に頼み込んだので、姉はため息をついて部屋の隅の車椅子を用意して僕を乗せてくれた。

「なに?そんなに大事な電話?」

廊下の突き当たりのロビーまで連れて行ってもらい、姉は「5分したら迎えに来るからね」と言って立ち去った。

 

とはいえ、かけ直すのには勇気も必要で、5分のタイムリミットは短かった。

 

呼び出し音が鳴って、やっぱり切ろうかと思う間もなくすぐに声が聞こえた。

 

「蓮?なにしてんの?」

 

ちょっと焦ったような声にも驚いたし、どう今の状況を説明しようかと迷って黙っていると

 

「今日、帰りに蓮のバイト先に行ったのにいなかったから...聞いたら連絡なしで休みだって言うし、何かあったのかと思って電話しても繋がらないし…どうしたの?」と聞かれた。

 

「えっと...ちょっと車に轢かれちゃって...」

 

「は?なにそれ、大丈夫?」

 

「大丈夫です、でも1日だけ入院するらしくて...」

 

電話の向こうで「...まぁ、良かったよ」と大きなため息と共に聞こえた。

 

「心配してくれたんですか」

 

「するに決まってんじゃん...明日帰るの?」

 

「そうみたいです」

 

「迎えに行ってあげようか?」

 

「え?でも...」

 

「お母さんもお姉さんも大変でしょ?良かったら迎えに行ってあげるよ」

 

「でも...そんなの悪いし...」

 

「来て欲しいの?来て欲しくないの?」

 

まただ。

 

答えなんてわかってるくせに。

 

「来て欲しいです...」

 

きっとまた、電話の向こうで満足気に笑ってる。

 

少し話して、姉の近づいてくる足音が聞こえたので慌てて話を切り上げた。

 

「終わった?」

「うん...あのさぁ、明日なんだけど友達が迎えに来てくれるから」

「え?そうなの?いいの?」

「うん、ごめんね...ほんとに今日は。姉ちゃんの手伝いに来たのに余計に迷惑かけちゃって」

「は?なによ気持ち悪い...でも、あんたが助けてくれなかったら裕太がどうなってたか...」

「舞香にもごめんって言っといてね」

 

 

 

「蓮、ここ」

 

次の日、姉を急かして早いうちに家に帰らせて、病院のロビーへ降りると、外来患者で溢れている待合室を抜けた出入口の近くで、神野が手をあげた。

 

一瞬、誰だか気づかなかった。

 

これまでスーツ姿しか見た事がなかったけど、白いパーカーと黒いスキニーのラフな格好で、僕と同じくらいの歳に見えた。

 

「大丈夫?」

「大丈夫です、ちょっと手首捻挫してたくらい」

「そっか、良かったね...じゃ、帰ろ。駐車場いっぱいだったからちょっと歩ける?」

「大丈夫です」

 

病院から少しだけ歩いた第2駐車場の隅に停まっている黒いSUV車の助手席のドアを開けてくれたので乗り込むと、爽やかな柑橘系の香りがした。

「家どこ?ナビ入れて」

「あ、はい」

ナビを操作して、家への経路案内を始めるともう一度「大丈夫?」と聞いて、神野は車を走らせた。

 

「神野さん仕事...休みなんですか?」

「休んだ」

「え?なんで?」

「別にいいじゃん、迎えに来たかったし...ていうかさ、敬語やめない?あと、よそよそしい呼び方やめて」

「なんて呼びます?」

「んー亮太でいいよ」

「じゃ、亮太さんで」

「...ま、いいかそれで」

 

病院から僕の家まで、30分ほどで帰れるはずだったけど、途中で事故渋滞があってなかなか車が進まなかった。

 

「大丈夫?気持ち悪くなってない?」

「大丈夫?って何回聞くんですか」

「心配してんじゃん」

「嬉しいけど心配しすぎ」

亮太はフフンと鼻で笑って前を向いて「全然進まないね」とボヤいた。

 

1時間以上かかって、ようやく家の近くのパーキングに車を停めた時、亮太は思い切り背伸びと欠伸をしながら「じゃ、ちゃんとおとなしくしてなよ」と言った。

 

「大丈夫ですか?」

「なにが?」

「眠そう」

「うん、眠い…ちょっとここで寝てから帰る」

 

「うちで寝ます?」

 

「…え?なにそれやらしい」

 

「いや、違うって!そんなんじゃなくて…」

 

また僕をからかって、亮太は大きな声で楽しそうに笑う。

 

「ごめんごめん、いいの?マジで眠い」

 

「狭いですけど」

 

部屋に入ると、少し空気がこもっていたので窓を開ける。

 

「なんか手伝って欲しいことある?手、痛いでしょ?」

「大丈夫です。だから、寝ててくださいよ」

 

もうずいぶん眠そうな顔をしていたから、逆にこっちが心配になる。

 

「うん…じゃ、寝る」そう言って亮太は、ソファー座ってクッションに頭を置いて目を瞑った。

 

「昨日、あんまり寝なかったんですか?」

 

「誰かさんが心配させるからでしょ…音信不通だし、車に轢かれたって言うし…」目を瞑ったまんま、眠い声で「だから迎えに行こうと思って…」と言ったら、そのまま黙って、静かな寝息をたてはじめた。

 

僕はそっと立って、窓を閉めた。

 

そして、腕の湿布と包帯を取って、音をたてないようにそっと風呂場に移動してシャワーを浴びることにした。

右手を捻挫したので利き腕を使うと痛いし、なにより顔にも手足にもよく見ると擦り傷がたくさんあって、滲みて痛い。

 

手が痛くて髪を乾かすのも面倒で、上半身は裸のままでバスタオルを頭にかぶって部屋に戻った。

 

まだ亮太はぐっすり寝ていて、寝顔をあまり見るのは気が引けたから、僕はそれに背を向けて座って、新しい湿布を貼って包帯を巻き直す。

でも、利き手じゃないからなかなかうまく巻けなくて時間がかかって、苛立つ。

 

すると後ろから「なにしてんの?」と声がした。

 

「あ、起こしてごめんなさい…」

「ううん、ちょっと寝たからもう大丈夫」

身体を起こしながら、亮太はこっちに手を伸ばす。

「貸して。巻いてあげるから」

僕は隣に座って、亮太は僕の右手を膝に乗せて、丁寧に包帯を巻いて、強く結ぶ。

「痛くない?」

「大丈夫です」

「髪もベタベタじゃん、風邪ひくよ」

そう言って、今度は僕が頭にかぶったバスタオルごと頭をゴシゴシとこすった。僕は恥ずかしくて、紅くなりそうな顔を見られないように俯いた。

 

すると、亮太は僕の頭をバスタオル越しに掴んだまんま引き寄せた。

 

冷たい鼻先が当たったかと思うと「こっち向いて」と顔を上げさせて、僕の口を亮太の唇が塞いだ。

冷たくて、少し乾いていた。

そして、髪を覆うバスタオルを外して、僕の髪の匂いを嗅ぐみたいに顔をうずめた。

 

「…良かった…死ななくて…」

 

僕の耳元でそう言って、もう一度僕の上唇を挟むようにキスをした。

 

僕は、何も考えられなくて、ただ至近距離でその綺麗な顔を見つめるだけだった。

 

 

 

 

 

 

remember anotherstory 【蓮③】

神野は立ち止まって、しばらく僕の顔をじっと見て、少し怖い顔で言った。

 

「ねぇ、なんで質問なの?」

 

「え...」

 

「そうやってさ、人の答えとか反応次第でまた誤魔化そうとするんでしょ?そういうの嫌いだよ」

 

確かにそうだ。

 

僕はずっとそればっかりだ。

 

相手の反応が悪かったら、すぐに冗談だとか嘘だとかで乗り切ろうとする。

 

「ずるいことしないで、ちゃんと思ってること言いなよ」

 

これまでみたいな、ただ優しい笑顔や言葉じゃなくて、怒ったような顔で、声で、僕は少し怖くて目を逸らす。

 

でも、笑い飛ばしておけばいいのに、適当にその場しのぎに答えればいいのに、僕にきちんと向き合ってくれるから、僕はもっとこの人が好きになって、苦しくなる。

 

「...好きです」

 

苦しくて、口を開いたら泣きそうだったけど、やっと聞こえるか聞こえないかくらいの声で、それだけ言った。

 

するとやっと、神野は表情を弛めて僕の頭を軽く2回叩いて「ありがとう」と、また優しい声で言った。

 

「ごめんね、意地悪した。でも、言うって決めたらちゃんと言わないと駄目だよ...ちゃんと言ってくれた方が嬉しいよ」

 

「なんで...なんで嬉しいとか言えるんですか?変だと思わないんですか?気持ち悪いと思わないんですか?」

 

「なんで?じゃ、俺のことも気持ち悪い?」

 

「え...」

 

「同じだね、俺たち」

 

返す言葉をなくして立ちすくんでいると、遠くから母が僕と裕太を呼ぶ声がした。

 

「まだあんまり、よく知らないけど...俺も可愛いと思うよ、蓮のこと」

 

もしかしたら僕は、まんまと彼の罠にかかったのかも知れないと思った。

最初から、僕の想いに気づいていたんじゃないか。

わかっていて、僕を更に自分に惹き付けて、求めさせようとしたんじゃないか。

 

そう思ってしまうくらい彼は、なんの曇りもない、そして満足気な笑顔を見せた。

 

 

 

 

 

 

「さっきの人は誰?」母に聞かれて少し言葉に詰まると、裕太が「れんにいちゃんのおもとだちだよーあそんだよー」と言った。

 

「おともだちね」

 

「おとともち」

 

「ま、いいよそれで」

 

「たのしかったねーれんにいちゃん」

 

「うん、蓮兄ちゃんも楽しかった」

 

《同じだね、俺たち》

 

彼のその言葉が、その日はずっと僕の頭から離れずにいた。

 

「なんかいい事あったの?」

 

裕太を姉のところまで連れて行くと、姉が唐突にそう言った。

 

「え?なにが?」

 

「なんか機嫌いいね。ね、裕太なんか楽しいことあったの?」

 

「いいじゃん、別に!なんもないって」

 

機嫌がいいと言うより、自分の中ではっきりしなかった想いを確かな言葉で吐き出したことで、少し気持ちがすっきりとしていた。

 

ずっと、長い間ずっと燻っていたものが晴れるように思えた。

 

 

 

その日、僕の携帯のメモリーに新しく入った名前を何度も見返した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

remember another story【蓮②】

金曜日の夜、アルバイトを終えて帰ろうとすると携帯が鳴った。実家の母からだった。

電話を取らなくても、内容はだいたいわかっていた。

歳の離れた姉が3人目の子供を産むために昨日から入院していたので、きっと産まれたという報告なんだろう。

 

「もしもし?産まれたの?」

 

3人目だと言うのに母は興奮気味に昨日の夜からの姉の奮闘劇を事細かに伝える。

ようやく話の切れ間を見つけて「わかったわかった、明日そっち行くから」と一旦宥めて電話を切った。

 

姉の子供たちは僕によく懐いているので可愛かったし会いたいと思うんだけど、憂鬱なのは両親と姉だ。

 

とにかく3人とも僕のことに関してうるさい。

 

ひとり暮らしの部屋に帰り、ソファーに荷物を投げ捨てて、クローゼットの中の実家から持ってきて開けていないダンボールを開けた。

 

「あった...」中学の卒業アルバムを引っ張り出し、ページをめくる。

 

やっぱり、似ていると思う。

 

後ろの方の教員のページに、僕が好きだった人の写真があった。

 

さっきの人にそっくりというわけじゃないけど、柔らかい笑顔とか大きな目とか、綺麗な輪郭とか、雰囲気が一緒だった。

 

僕は、卒業するまでこの先生のことが好きで仕方がなくて、卒業式では卒業生に囲まれて記念写真を頼まれているその光景をただ遠くから見て終わった。

 

一緒に写真を撮ることも、最後に話すことも、ましてや想いをつたえることも出来なかった。

 

その時の想いが溢れてきて、僕は思わずアルバムを勢いよく閉じて、またダンボールに投げ込んた。

 

こんな想いはもう嫌だ。

 

人を好きになりたくなんてない。

 

 

 

 

翌日の午前中に、姉への出産祝いを買って病院に向かった。

姉の2人の子供たちが、寂しかったのか僕を見つけると飛びついて来る。上が小学校にあがったばかりの女の子で、下はまだ3歳の男の子だ。

「3人目は?女の子?」

「そうよ、可愛いでしょ」

正直、産まれたてなんて可愛いかどうかわからない。

 

「蓮は?彼女出来た?いい加減」

「いないってば」

「なんで?」

 

女の子には興味無いからです。

とは、とてもじゃないけど言えないから会う度に同じ質問をされてうんざりする。

 

すると母がそこで「まだ若いんだから慌てなくていいのよ、ねえ?」とフォローをするけど

 

「いつかは普通に結婚して、普通に孫を見せてくれたらそれで充分よ」

 

と、結局の着地点は姉と同じで、きっと父も同じだ。

 

「そうだね、普通にね」と僕も答える。

 

その理想とする最低限の普通。

 

この人たちにとっては、そこが一番許せるギリギリの最低ラインなんだろうけど、そこに到達出来ない僕には価値はないと言うんだろうか。

 

「れんにいちゃん、おこってんのー?」

「え?なんで?」

 

手を繋いでいた姉の下の子の裕太が見上げて聞いた。

 

「こわいかおしてるよー」

 

僕は慌てて顔の緊張を取ろうと頬を軽く叩いた。

 

「なんでもないよ、大丈夫」

 

その無垢な存在を抱きあげて、温かさに癒されながら

 

君たちが大きくなって、いろんなことを知って、僕を見た時にも、そうやって曇りのない目で見てくれるだろうか。

 

そんなことを考える。

 

退屈している裕太を連れて、病院内を散歩して、売店でお菓子を買ってやって姉のところに戻ろうとすると、裕太が「いや!」と言って外に出る自動ドアの方へ走り出した。

 

「裕太、危ないから!」追いかけようとすると、ちょうど自動ドアから出ていこうとする人の後ろ姿にぶつかった。

 

「すみません」

 

謝りながら裕太を抱きあげようとしゃがむと、僕の頭の上から「あれ?蓮くんだ」と聞いたことのある声で名前を呼ばれて驚いて顔をあげる。

 

そこに立っていたのは、神野亮太だった。

 

神野亮太はしゃがんで、裕太の目線になって「こんにちは」と言った。

 

「こんにちはー」

「子供いんの?」

「いや、まさか!姉ちゃんの子です」

「だよね、まさかね」

「姉ちゃんが赤ちゃん産んだから来たんですけど、この子が退屈しちゃって...」

「そりゃ退屈するよね、偉いね面倒見てあげて」

「えーっと...神野さんは?」

「あれ?名前覚えてくれてるじゃん」

「あ、すみません...社員証見ちゃって...」

「いや、謝らなくていいってば。俺も仕事関係でお見舞いだよ、もう帰るとこだけど。あ、ちょっと歩いたら向こうに公園あるよ、連れてってあげたら?」

 

そう言うと、僕の返事も待たずに裕太の手を握って「公園行く?」と聞いた。裕太も人見知りせず「うん!」とついて行く。

 

「行こ」

 

「いや、仕事中ですよね?でも...」

 

「いいじゃん、別に」

 

病院の敷地を出て、裏通りを少し歩くと大きな公園があって、ジャングルジムや滑り台やブランコもあって、裕太が嬉しそうに神野の手を振りほどいて走り出した。

 

「大変だね、あのくらいの子って元気有り余るもんね」

 

「そうなんですよ、だから姉ちゃんも困って俺に任せるんですよ」

 

「大学生?」

 

「そうです」

 

「いいね、青春だね」

 

1人で楽しそうに走り回る裕太を眺めているその彼の横顔がまた綺麗で優しくて、僕はつい眺めてしまう。

 

すると、急にこっちを向いて

 

「なに?俺に見惚れてた?」

 

「え...」

 

「冗談だよ」

 

神野は意地悪そうな顔で微笑んで、裕太の方へ近づいて行く。

 

「あの...」

 

「なに?」

 

「本当に見惚れてたって言ったらどうしますか?」

 

微笑んだまま振り返った神野の顔が、一瞬で真顔になったから、僕はやっぱり後悔する。

冗談だと乗り切ろうとした時、彼は真顔のまんま「嬉しいよ」と言った。

 

そしてすぐに「でも俺、君に比べるとおじさんだからあんまり見られると恥ずかしいね」と笑ったから、僕は小走りで追いついて

 

「いや、そこじゃないでしょ?」

「何が?」

「おじさんだとか、そういう話じゃなくて...」

 

「男だから?ってこと?」

 

裕太はジャングルジムに登り始めて、神野は下からいつでも受け止められるように手を伸ばして見守る。

 

「変だと思わないんですか?」

 

僕はその横顔に聞いた。

 

「なんで?自分の感じた気持ちに正直じゃいけないの?」

 

その時、裕太が少し手を滑らせて、神野に支えられた。

 

「危ないよ、大丈夫?」

「うん!すなばいくー」

「元気だな、ほんとに。気をつけてね」

 

砂場に走っていく裕太を目で追って「まぁ...でもそんなの綺麗事だよね」と呟くように言う。

 

「正直に言ったからって理解されないことばっかりだし...どっちかって言うと辛いことばっかだし、言わない方がいいことっていっぱいあるもんね」

 

「神野さんもありますか?そんなこと」

 

「あるよーめっちゃある...今もさぁ...すごい悩んでんだよね」

 

「今?」

 

「そう。まさに今ね」

 

「なんですか?」

 

「君が俺に見惚れてたってのはどういう意味なのかなって。からかってる?...て聞いたら困るのかなって」

 

「からかってないです」

 

「そっか...じゃ、やっぱり嬉しいよ」

 

神野は腕時計を見て、「そろそろ帰るよ、じゃあね」と言って、裕太のほうへ「またねーちゃんといい子にしてなよ」と手を振って、僕たちに背を向けた。

 

もう会えないかも知れない。

 

でも、あの優しくて綺麗な横顔をまだ僕は眺めていたい。

 

まだ僕は、この人のことなんて何も知らないけど、この笑顔や優しさはただの建前なのかも知れないけど

 

僕は...それでも

 

「待ってください」

 

立ち止まって「なに?」と微笑む。

 

「好きになったって言ったら困りますか?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

remember anotherstory 【蓮①】※BL表現あり注意※

中学生の時、好きになった人がいた。

 

国語担当の新任教師で、若くてノリがいいから生徒からも人気があって、背が高くて、男臭くなくて綺麗な顔をしていた。

 

授業中には、教室中を歩いて生徒たちの様子をよく見てくれて、ひとりひとりにしっかり寄り添って教えてくれる。

 

その時に手が触れただとかいい匂いがしただとか、女子が休み時間に騒いだりしているのを見て、ただただ羨ましいと思っていた。

 

好きな人の話をみんなで共有して、盛り上がって、有り得ない妄想を夢見る。

 

僕が女の子だったら、その輪の中に入って、この胸の内に仕舞った想いを分けあえたのにと、毎日思った。

 

もちろん、そんなことは仲の良い友達にも絶対に言えなかった。

 

言えるわけがなかった。

 

いつか、そんな僕を受け入れてくれる誰かが現れるんだろうかと、いつまで自分を偽って生きていかないといけないんだろうかと、まだまだ先の長い人生を悲観したりもした。

 

自分と同じ悩みを持ち、うち明け会える人と現実で出会うことは難しい。何故なら、多くの人は隠して生きてるからだ。

 

SNSのコミュニティで話すことはあっても、ネット上のやり取りがどこまで真実かわかりはしない。全部が嘘かも知れない。

 

ただの暇つぶしにしかならないと思っていた。

 

 

大学生になって、一人暮らしをするようになってアルバイトを始めた。

 

うちの親は両親ともに過保護で、これまで自分のことは何ひとつ出来なかったから、最初はかなり大変で、親の有難みを感じた。

 

それでも、初めてのアルバイトにもひとりでの生活にも慣れてくるようになって来た頃だった。

 

その人に出会ったのは。

 

働いている居酒屋の店内は、もう閉店時間の12時に近くなり、客もまばらだった。

 

カウンターで1人で呑んでいる年配の常連客、テーブルに完全に酔っ払って騒ぐ派手な若い女の2人組と、少し離れたところに若いサラリーマンの2人組。

 

若い女2人組の声がやたらと静かな店内に響いていて、少しうんざりしながら空いたテーブルを片付けていた。

 

すると、その女たちが少し離れたところに座っている若いスーツ姿のサラリーマン2人組を気にし始めた。一見、若くてチャラそうなそのサラリーマン2人組は、もうそろそろ帰ろうとしていたところだったけど、そこに女たちが話しかける。

 

「お兄さん達、一緒にどこか行きませんかー?」

 

女からナンパかよ、下品だなと思いながら、とにかくよく声が響くので気になって見ていた。僕だけじゃない、カウンターの常連客も他の店員もつい気になってそちらを見る。

 

サラリーマン2人組は顔を見合わせて、眼鏡をかけた方が眠そうにしながら首を横に振ると、もうひとりの背の高い方が「ごめんね、こいつが嫌だって」と答えた。

 

「えーじゃ、そっちのお兄さんだけでもいいんだけど」

 

「あ、俺も嫌です」

 

「は?なに?偉そう!ムカつく!」

 

女たちはテーブルを叩きながら怒り出したけど、彼らはかまわずテーブルに置いてあった伝票を持って席を立ったので、僕も慌てて駆け寄った。

 

「伝票、お預かりします」

 

背の高い方から伝票を受け取って、顔を見上げて、僕は一瞬手が止まった。

 

その人は、僕の視線には気が付かなかったけど慌てて目をそらす。

 

今日は閉店近くまではわりと忙しかったから、この2人組がいたことすら意識してなくて、今やっとしっかり顔を見た。

 

背が高くて、男臭くない綺麗な顔をしていて、中学生の時に好きだった人によく似ていたから、勝手にひとりで恥ずかしくなって慌てる。

 

「あの...すみません、他のお客さんがご迷惑かけて...」

 

レジ前で伝票を打ちながら、でも顔が直視出来ずに言うと

 

「全然いいよ、君が謝らなくてもいいじゃん」

 

その声があまりに優しくて、つい顔をあげてしまって目が合う。目が合うとニコッと微笑んで「こっちこそ言い方悪くて怒らしちゃったから、ごめんね」と言って去っていった。

 

その人を見送ってレジから出ようとすると、釣り銭トレーのすぐ脇に黒い革の定期入れが忘れてあった。

 

開くと、ICカード社員証が入っていて、さっきの人の顔写真と名前が載っている。

 

❝神野亮太❞

 

そう書いてあった。

 

慌てて走って追いかけた。

 

駅前にはまだまばらだけど人が多くいて、タクシー乗り場の列にはいなかったから、改札への階段を駆け上がる。

 

さっきの2人の後ろ姿が遠くに見えて「すみません!忘れ物!」と呼ぶけど、見知らぬ声には気づいてもらえない。

 

でも、改札に入る1歩手前で止まり、スーツのポケットを探り始めて、その人はまた僕の方を振り返った。

 

「忘れ物です!」

 

そう言って定期入れを上に掲げると、小走りで近づいて

 

「ごめん、ありがとう。走って来てくれたんだ」

 

よくよく考えたら、こんなに必死に走って追いかけなくても改札で気づいて取りに帰ってきたはずだ。

 

「すみません...大声で呼んじゃって」

 

「なんで?君さ、謝りすぎじゃない?謝るのはこっちでしょ?」

 

そう笑って僕の手から、定期入れを受け取る。

 

「ごめんね、まだバイト中なのに。ありがとう、蓮くん」

 

「え…」

 

「名札。じゃ、頑張ってね」

 

「はい...ありがとうございます」

 

「バイバイ」

 

そして、僕に笑顔で手を振って改札の向こうに消えた。

 

嫌だな。

 

僕にとって誰かを好きになるってことは、自分がいずれ傷ついて終わるということなのに。

 

何故か、その笑顔が胸に残り、少しの痛みを感じさせられた。