プライド【11】
あの日から僕の日課が出来た。
セイの安否確認だ。
毎日、電話をして「元気か」と聞くだけだ。
時には、そのままセイの泣き言を聞くこともあるし一言で終わることもある。
そして僕は、学校とバイトが終わった夜に意を決して薫さんに会いに行くことにした。
旦那がいたらどうしよう。
夜だから、いる可能性は高い。
もし、暴力を振るわれていたらどうしよう。
そして
一番の心配はカズキに会ったらどうしようかということだ。
口実は充分にある。
セイの話を聞いてカズキの本音を聞きに来たんだと。口実じゃない。僕の本心が聞きたがってはいた。
アパートの駐車場に、カズキの車はなかった。
そっと薫さんの部屋に近づいてみた。
チリンチリンと玩具の鈴の音と、薫さんの小さな歌声が聞こえている。台所の小窓から少し覗いてみる。
旦那はいないのかと慎重に様子を伺っていると急に大きな声が中から聞こえた。
「呑気に歌ってないで早く寝かせろ!」
あいつだ。
部屋の隅に座っていて見えなかった男が立ち上がって薫さんに近づいて罵声を浴びせた。
男は酔っているのか呂律がまわらず、何を言っているのかよくわからないがとにかく大きな声が響き渡る。
アパートの住人は慣れているのか誰も顔を出したりはしない。カズキの部屋もその母親の部屋も電気がついていない。
寝ているのか。仕事でいないのか。
誰も助ける人はいない。
僕は動けないまま小窓からそっと覗いていた。
薫さんは赤ちゃんを守るようにそっと布団に置いて掛け布団をかぶせた。
すると、男は勢いよく薫さんを押し倒して覆い被さる。
小さな悲鳴が聞こえた。
その途端、僕は咄嗟に玄関のドアを思い切り叩いた。
どうするつもりだ。
自分に問いかける。
すると、邪魔をされた男が大きな足音を立てて玄関に近づいて来る。
「なんだ!!!」
思ったよりは、小柄な男だった。
声のわりには線が細く小柄だが、完全に酔っていて顔が赤く目が虚ろだ。
後ろから薫さんが驚いた顔で僕の名前を呼びかけて、ぐっと堪えた。
僕は、男の肩を力いっぱい押してよろめいて倒れたのを見計らって靴のまま中に入り、咄嗟に赤ちゃんを抱いていた薫さんの手を引っ張った。
「逃げよう!!!」
でも
僕の思い描いたようにはいかなかった。
薫さんは、抵抗した。
そして、僕の手を振り払う。
「ごめんなさい…」確かに、彼女の唇はそう言った。
その瞬間、僕は襟首を掴まれて後ろに弾かれた。
「お前!誰だ!!!!薫!こいつ誰だ!!!」
僕は、男に馬乗りになられながら強く願って薫さんの目を見た。
彼女は戸惑いながら僕の目を見て、言った。
「知らない…」
薫さんに、僕の願いは届いていた。
知らないと言って欲しい。
知らない頭のおかしい奴が英雄のフリをして飛び込んで来ただけだ。
助けられると思って、力もないのに思い上がっただけの知らない男だ。
薫さんの言葉を皮切りに、僕の頭や顔や胸に絶え間なく衝撃が走った。
「やめてよ、死んじゃう!」
「知らない奴なんだろ??死んでもいいだろ!」
正直、死にたくはなかったけど
死ぬかもしれないと思い始めた頃だ。
「おい!!!!警察呼んだぞ!!!!その辺でやめとけ!!!!」
聞いたことのある声がした。
「なんだ!こいつ人の家に勝手に入ってきて嫁を連れてこうとしたんだ!捕まるのはこいつだろ!」
「それでもやり過ぎなんだよ!!!そいつ離せよ!!!」
男は舌打ちして、僕の上から降りた。
そして、止めに入ったカズキにわざと肩をぶつけて飛び出して言った。
「おい、リク!立てるか?」
「…立てません…」
「でしょうね。救急車呼んでます、寝とけ」
そして、薫さんの肩を掴んで「あんたはこっち」と外で待っていたカズキの母親に引き渡した。
カズキは僕の傍でしゃがみこんだ。
カズキとその母親は、ちょうど出かけていて帰ってきたところだったそうだ。
「遅いよ…」
「知らねーよ。ていうかお前、最低だな」
「何がだよ」
「お前ら出来てたのかよ。不倫じゃん、最低じゃん」
僕は否定はしなかった。
「なんなんだよ…お前らみんな気持ち悪い。どいつもこいつもさ…気持ちわりぃんだよ」
カズキは堰を切ったように止まらなかった。
「男同志で好きとかさ!人妻に手出すとかさ!マジで気持ち悪い!なんだよ!マトモなやついねーのかよ!なんだったの?俺たちさ!終わりだよ!全部!!お前らの顔なんて二度と見たくないんだよ!」
カズキは肩で息をするほど取り乱して叫んだ。
僕はひとつも動けず、少し意識が朦朧としていたけれど
振り絞って一言だけ、カズキに言った。
「それは、お前の本心なのか?」
カズキは黙って、睨むように僕を見ていた。
目を覚ました時に、僕を覗き込んでいたのはセイだった。
「人に死ぬなよって言っといてなに死にかけてんの?」
「あれ?なに?どこ?」
「救急病院の処置室だよ。ずっとお母さんいたんだけど、トイレ行きたいから見とけって言われた」
「嘘だろ?死にかけた息子が目を覚ます感動の場面にトイレに行くとかあるの?」
「ま、実際そんな重傷でもないらしいけどね」
あの後、警察と救急車が到着して僕は救急病院に運ばれたようだ。
「すげーブスだよ」セイが笑った。
感覚としては、顔が2倍くらいに腫れ上がっているような気がするくらいだった。どこもかしこも痛い。
通報したカズキの母親と、止めに入ったカズキと、薫さんは警察署で事情を聞かれたようで、あの男も駅前のパチンコ屋にいるところを見つかり連れていかれたらしい。
僕にも、後で事情聴取があると聞かされた。
「リクって、こういうことよくあるね。高校生の時もさ、女の子助けに行ってめっちゃ死にかけたもんね。馬鹿だね」
「そんなことあったっけ」
「あったよ」
「誰がお前呼んだの?」
「カズキだよ」
「そうか」
「あいつ馬鹿だよね、心配してるくせにね。悪いけど居てやってくれってさ。いろんな意味で傷ついてるからってさ」
「うん…」
「傷ついてんだ」
「うるせーな」
あの時、薫さんが抵抗せずに僕について来たとして、その後のことなんて何も考えていなかった。
たぶん、今の僕にはどうしてやることも出来なかっただろう。
しばらくして僕の事情聴取があった。
薫さんと僕との関係は〝顔見知りのアパートの大家の孫の友達〟で、友達の家に遊びに来たところ偶然にも暴力の現場に居合わせ、助けに入ったということになっていた。
事情聴取が終わった頃にカズキの母親が僕のところに来た。
僕に被害届を出して欲しいとのことだ。
薫さんも被害届を出すことにしていて、あの男が拘留されているうちに薫さんを逃がすつもりだと言う。
「わかりました」
僕は、カズキの母親に薫さんの身の上話を聞いた。
美容学校に通うために親元を離れて上京したけれど、両親が事故で亡くなり、祖母の面倒を見るために夢を諦めて帰ってきたこと。
就職先で知り合った男と付き合い、祖母が亡くなり1人になったのをきっかけに結婚したこと。
男は結婚した途端に外に女を作って生活費もろくに入れずに、たまに帰って来ては暴力を振るうようになったこと。
子供が生まれれば変わってくれるだろうと信じていたこと。
幾度となく、カズキの母親は別れることをすすめていたがその度にいつか変わってくれると言って聞かなかったそうだ。
でも、僕のような知らない人間ですら躊躇なく殴り続けるその姿を見て、いつか子供にすら暴力を振るうようになってはいけないと気づいたようだ。
「あー…じゃ、俺が殴られたのって良かったんですね」
「結果的にね。でも、ごめんなさいね…うちの子がひどいことばかり言って」
「いや、事実なんで…」
そう言うと涙が勝手にこぼれた。
「俺が…一方的に好きだっただけです」
それはわかっていた。
僕に抱かれてくれたのは、ただ寂しかっただけで、ただ頼れる人がいなくて心細かっただけで、自分を好きと言ってくれる人に委ねかっただけで
僕のものになりたかったわけじゃない。
僕が泣き出したのを見て、カズキの母親はそっと出ていってくれたけれど
セイのように声を出して泣くことを、僕のくだらないプライドが邪魔をした。
溢れてくる涙を抑えようと必死にこらえるしかなかった。