W【10】
翌朝、目を覚ますと理沙がまだ腕の中で眠っていたから、そーっと慎重に腕を抜いてベッドを抜け出した。
僕が仕事に行く前に起こせばいいだろうと、ひとりで理沙の分も朝食の準備をして、コーヒーをいれる。
正直なところ、食欲は全くなくてとりあえずトーストを半分だけコーヒーで流し込んだ。
着替えの途中で、理沙が寝室から出てきたので「おはよう」と挨拶をした。
「大丈夫?タク」
「うん、大丈夫。心配させてごめん」
「ちょっと…聞いてくれる?」
「どうした?」
理沙は少し何かに怯えたような警戒するような顔で話し始めた。
昨日、寝室で眠っている時に微かな物音で目が覚めたらしい。はっきり聞こえたわけではないけど、鍵の開くような音がしたような気がした。少し寝ぼけていた理沙は、僕が帰ってきたのだと思って起きようとしたら隣に僕がいて、少し怖かったけど起き上がって静かに寝室のドアを開けた。
でも、真っ暗な廊下がそこにあるだけで、玄関の扉の鍵は閉まっている。そして、その日は僕がチェーンをかけ忘れたらしく慌ててチェーンをかけたと言う。
チェーンのかけ忘れはよくあって、その度に理沙に叱られるのにどうしても時々やってしまう。
「聞き間違えだったらいいんだけど、泥棒だったらどうしよう…」
「まさか…」部屋を見渡してもその気配はない。
「今度からそういう時は俺を起こして」
「うん。…ていうかチェーンかけ忘れないで!」
「ごめん」
結局、なにひとつ部屋の様子は変わらなかったので理沙は思い違いだろうと納得した。
まさかな。
あいつは、俺の家なんて知らないはずだ。
「俺の顔、なんかついてます?」
その日の夜は、理沙の店に寄った。
昨日の友也の言葉を思い出して、つい晴人の顔を凝視しすぎたらしい。
「いや、なんにもないよ…忙しそうだと思って」
「大変ですよ、いろいろ教わらなきゃいけないこととかあって覚えきれないかも」
晴人は接客の仕事をしながらも、理沙に教わることを覚えるのに精一杯という感じだった。
「おかわり何か飲みます?」そう声をかけてくれたけど、どうにも調子が悪くてお酒の気分ではなかったから「温かい紅茶がいい」と頼んだ。
火にかけたポットのお湯がぐらぐらと煮立ち始めた時、ふいに遠くから理沙が晴人に声をかけ、晴人が慌ててそっちを向こうとしてポットの注ぎ口を袖にひっかけた。
「危ない!」そう言った時には、ひっくり返ったポットのお湯を晴人は右腕に浴びていた。
「あっちい!!!!」晴人はそう叫んで、慌てて僕はカウンターの向こうに入って晴人の腕を掴んで、服の上から水道の水を勢いよくかけた。
《晴人にも腕に同じような傷痕があるの》
理沙が話していたのを思い出す。
晴人の顔は蒼白で、唇が震えている。
「晴人…大丈夫か」声をかけた瞬間、晴人の全身の力が抜けて床に倒れた。
ちょうど、馴染みの深い客がいたので手を貸してもらい、晴人を店の奥の倉庫兼更衣室に連れて行った。気を失っているだけで、呼吸も心臓の鼓動もしっかりとしていたので休憩用のソファーに寝かせた。
嫌な思い出が頭に浮かんで戸惑ったけど、放っておくわけにはいかないので晴人の右腕の袖を捲る。
真っ赤になったその下の皮膚は、友也と同じだ。
ただ、過去に同じように不注意で火傷を負っただけかも知れない。
それとも…また僕は触れてはいけない部分に触れてしまったのかも知れない。
あんなに震えて、気を失うほどの理由はそこにあるんだろう。
捲った袖を下ろして、氷を詰めたビニール袋を押し当ててやる。
それにしても、なぜ友也は晴人を知っているんだ?
前に店であった時は、どちらもそんな素振りはしなかったじゃないか。
しかも…もしかしたら同じ境遇を生きて来たかも知れない。それは偶然なのか。
そんなことを考えていると、晴人は目を開いて勢いよく飛び起きた。
「晴人、大丈夫か」僕の呼び掛けに、一瞬状況を飲み込めずに動揺していた晴人だったけど、やがて右腕の痛みに気付いた。
「ヤバい…すみません、迷惑かけちゃって」
「いいよ、大丈夫。もう店もお客さんあんまりいないし…田辺さんが手伝ってるよ、たぶん」
僕と一緒に晴人を運んでくれたのは、開店当時からの常連で、今は店に飲み物を納入している酒屋の田辺さんだ。
田辺さんは気の良い人で、たまにそうやって洗い物なんかを手伝ってくれていると聞いていた。
「あぁ…田辺さんなら別にいいっすね」
「いいのかよ」
晴人が笑ったので、僕もホッとした。
晴人と僕が戻ると、店は営業を終えていて田辺さんも帰るところだった。
「すみません、理沙さん、田辺さん」晴人が深々と頭を下げると「いいよいいよ、楽しかった」と田辺さんは店を出ていった。
「すみません、理沙さん」
「気をつけてよ?晴人」
「はい」
「晴人の傷、見たよ。友也と同じだ」
帰り道、歩きながら理沙に言った。
「やっぱり…」
「でも、わかんないな…もしかしたら不注意での火傷かも知れないしね」
「そうね」
「でも、何かしらトラウマがあるんだろうな…心配だな」
「気をつけていてあげないとね…」
「もちろん、自分のこともね」
「うん、わかってる」
その2日後だ。
友也との約束の日。
僕が指定された時間に雑居ビルの前に着くと、上から呼ぶ声がした。友也がベランダに出ていた。
「出かけるからそこで待って」
しばらく待つと、上下黒のスウェットに黒いマスクで顔を半分隠した友也が現れて、僕にも「顔は隠したほうがいいよ」と黒いマスクを渡した。
そして、しばらく歩いて少し拓けた建築現場の前に到着すると、ひとりの見知らぬ若い男が待っていた。
どう考えても、犯罪の匂いしかしない。
僕は一気にここに来たことを後悔した。
友也はその若い…もしかしたら二十歳そこそこかも知れない男に小さな袋を渡して、その男は受け取ると、目隠しされた建築現場に忍び込んで行く。
「ビビってんの?」友也が意地の悪い顔で笑う。
「当たり前だろ、なんだよあれ」
「まぁ、もうちょっと待ってよ」
友也に手招きされて、僕も友也も目隠しの白いビニールカバーの隙間から中を覗く。
そこにはまた、ひとり男がいて、さっき友也が若い男に渡した物を受け取り、代わりに何かを渡す。2人は話すことも無く、その交換が終わると中で待っていた男は別のところから出ていこうとした。
「見ろ、あいつ」小声で口の前に人差し指を当てながら友也に言われて、その男を凝視する。
月明かりと街頭に照らされたその背の高い男は、晴人に似ていた。
僕が驚いていると、すぐにさっきの若い男が帰ってきて手に握った数枚の一万円札を友也に差し出す。受け取った友也は、その中の一枚を若い男に握らせ、顎をあげて「行け」と合図する。
若い男は走り去った。
「今のは?」
「これが俺の今のお仕事です」
「ふざけてないで教えろよ、なんだよこれ」
「お得意様にお薬を売ってあげたんだよ、ちょっとお高いけど…めっちゃくちゃ飛べるやつ」言い終わるかどうかのところで、友也は声を潜めながら嫌な笑い声を吐いた。
「あいつ…もうすぐ廃人だね」