W【番外編ATSUSHI①】
昨日の夜は、迫る定期テストの勉強が全く進まず、自分で決めた課題を済ますことが出来たのはもう明け方だった。
おかげで、学校までの坂道を必死で自転車をこぐ羽目になってしまった。
高3になって、みんなが受験モードになっていく中で、僕は、長く休んでいた分の遅れを取り戻すために焦っている。
なんとか、留年せずに済んだだけでも良かったと思う。
横断歩道まで遠回りするのが面倒で、車道を渡ろうとして車が迫って来ているのに気づかずブレーキをかけると、車も停まった。
やばい。
怖い人だったらどうしよう。
だけど、運転席のその人は手振りで「どうぞ」としたので頭を下げようとして気づいた。
思わず、僕は自転車から降りた。
その人も、僕に気づいて驚いた顔をしてから、嬉しそうに満面の笑みで手を振ってくれたけど、僕は恥ずかしくなって、うまく笑い返すことが出来なかった。
でも、嬉しかった。
あれは、たった1日の出来事だった。
でも、17年の人生の中で一番悲しくて、辛い日でもあった。
高2の夏休みが終わって、夜は少し肌寒さも感じられるようになった頃。
なんだか毎日つまらないな。
ふと、そう思っただけだった。
帰りたくないなって思っただけだった。
帰り道とは逆の電車に乗って、適当な駅で降りて、コンビニに寄って暇つぶしに雑誌を読んで出てくると、ガラの悪い連中に絡まれた。
「お前、さっきから何睨んでんの?」
「睨んでないですけど…」
僕は、目つきが悪い。
更に今日は機嫌も悪い。
だからこんなことは、よくあることで「またか」とため息をついた。それが余計に悪かったみたいで、そいつらを逆上させた。
コンビニと雑居ビルの間の細い路地に連れていかれて、引きずり回されて殴られて、気が遠くなり始めた時
突然、僕に馬乗りになっていた男がふと横に倒れて視界から消えた。
「人が気持ちよくここでタバコ吸おうと思ってんのになに暴れてくれてんだよ」
20代半ばくらいだろうか、派手な髪色で、小柄で、見るからに軽そうな男がコンビニの袋を振り回しながら立っていた。
視界からいなくなった男は、僕の隣に倒れて苦しそうに呻いている。
見る限りは、僕に絡んできた男たちの方がガタイも良かったけど、そいつらはその小柄な男に次々に倒されていった。
怖かった。
喧嘩が強いというより、この小柄な男は人を殴ることに全く躊躇がないように見えた。
だから、相手は反撃する間もない。
躊躇がないから、顔、しかも鼻のあたりを力の限り殴られてしまうからだ。
「なんだ、高校生?なにしたの?お前」
それが、僕と友也との出会いだった。
手をさしのべられて起き上がると「気をつけろよお前、目つきが悪いから」。生まれつきなんだから仕方ないだろうと思いつつ、助かったことには変わりはないので「ありがとうございます」と礼を行った。
そして、乱れた制服を直しているとふと気づいた。
「あれ…ヤバい…」
「どした?」助けてくれた男はもう立ち去ろうとしていたけど、僕が焦っているので立ち止まって振り向いてくれた。
制服のズボンのポケットに入れていた財布がなかった。
「財布…」
「あー取られちゃったんだ…可哀想に」
電車のICカードも財布に入れているし、これから家に帰るのをどうしようか…帰りたくなかったくせに急に焦る。
男はため息をついて「貸してやろうか?電車代」と優しく言ってくれたけど、僕は何故か首を横に振った。
男は呆れた顔をしてため息をついて「じゃ、ちょっと稼がせてやるからおいで」そう言った。
「どうせ家出少年なんだろ?仕事手伝えよ」
コンビニの袋を振り回しながら機嫌よく鼻歌を歌って、その男は少し歩いた先の古い雑居ビルに入っていった。1階が居酒屋で、2階には雑貨店が入っているようで、その上からは住居になっている。
その一室のドアの前で「知らない人についてったら駄目って教わらなかったの?」と言いながら、ドアを開けて僕に先に入るよう促した。
男の一人暮らしのわりに、きちんと片付いていていい匂いがした。
「お前、汚いなぁ…」
外であれだけ引きずり回されてたんだから当然だ。「まだ仕事まで時間あるから、シャワー貸してやるよ」と言って黒いパーカーのセットアップを投げてよこす。
「ありがとうございます…」
「名前は?」
「…アツシです」
「アツシね、俺は友也だよ。めんどくさいから呼び捨てでいいし、タメ口でね」
浴室で鏡を見ると、髪は埃だらけだし、口は切れているし、滅茶苦茶だ。シャンプーが顔に滲みる。
借りた服を着て出て行くと「そこら辺で好きにしてろよ」と言って、服を脱ぎながら友也も浴室に向かった。
その背中を見て、僕はつい「え?」と小さく叫んでしまって、その声に気づいて振り向いた友也は一瞬だけ怖い顔をした。
でもすぐに、「あんま見んなよ」と笑った。
背中に…というより振り返った胸元にも、腕にも無数の傷や火傷の痕で、とても直視できないほどボロボロだった。
シャワーの音がやんで、浴室から友也は顔だけ出して「ちょっとそのTシャツ取って、お前怖がるから」と言った。
「別に…大丈夫です」
「“です”はいらないってば…じゃ、出るよ」
あんまり見るなと言われたけど、僕はその背中をぼんやりと見ていた。
痛そうだなぁ…
こんなに強い人なのに何があったのかなぁ…
もちろん、聞いたら駄目なんだろうなぁ…
「あんまり見んなって言ってるだろ?」
「あ!ごめんなさい…」
濡れた髪を乾かしながら、テーブルの上のタバコに手を伸ばして火をつけ「吸う?」と聞く。
僕は首を横に振る。
時計を見ると、もう夜の10時をまわっていてふと親の顔が浮かぶ。さすがに心配してるだろうな。
携帯は充電が切れてしまって、きっと何度もかかって来ているんだろうけどわからない。
「帰りたかったら帰っていいよ、電車代貸してやるよ」
僕はなんだか馬鹿にされたような気がして、少しイラッとして、思わず立ち上がって部屋の窓を開けた。
そして、手に持った携帯を放り投げた。
「おい危ないよ」
そして友也に向き直って言った。
「帰らねぇよ」
友也は呆れたように見上げて「いいね、そういうの好きだよ」と笑った。
そして「そろそろ出るぞ」と言って、僕にパーカーのフードとマスクで顔を隠すように言った。
「それから、お前は声が幼い。出来るだけ喋るな。相手になめられる」
僕が黙って頷くと「それでいい」と言った。
ヤバい仕事なのは一目瞭然だ。
雑居ビルを出て、さっきのコンビニの前を通り過ぎ、大きな交差点のあたりに白い布に覆われた建設中の建物がある。その建築現場の前で友也は僕に小さなビニール袋を手渡した。
「この中に、お姉さんがひとりいるはずだからこれを渡してお金もらって来て。それだけ」
ビニール袋には、錠剤がいくつか入っていた。
「手、震えてるぞ」
友也は僕のパーカーのフードをぐっとおろして顔を隠し「やんのか?帰るのか?」とまた意地悪く聞く。
僕は黙って、建築現場を覆っている布の裂け目から中に入った。
中にいたのは、大人しそうなOL風の女の人だ。
こんな人が、違法薬物なんかに手を染めるのかと驚きを隠せなかったけど、彼女は僕に気づいて足早に近づき、何枚かの1万円札を握らせ、代わりにビニール袋を奪うように持って行った。
そして受け取った金を外にいた友也に渡すと「よく出来ました」と頭をポンポン叩いて、僕にその中の一枚を渡す。
「終わり。帰ろう」
先に歩き出した友也の背中を僕は急いで追った。途中、コンビニで食べるものを買ってくれたけど喉を通る気がしない。
怖かった。
でも不思議と帰りたいとは思わなかった。
悪いことをしたいわけじゃない。
ただ、まだここに居たいと思っていた。
「とりあえず子供はもう寝ろ」と渡されたブランケットを頭からかぶって床に転がると、思っている以上に疲れていたのか、僕はすぐに眠りに落ちた。
夢も見ないくらい深く眠っていたけど、ふと目を覚ました時はまだ外が暗いようだった。暗い色のカーテンの隙間から、まだ陽は差し込んでいない。
まだ少し眠ろうと寝返りをうつと、微かに声が聞こえる。部屋は真っ暗だから友也も眠っているはずで、声の主が誰かと考えると怖くなって一層体を丸めた。
でもなんだか、その声がとても苦しそうで、まさかと思い体を起こして窓際のベッドに近づいて、その枕元にあった友也の携帯の画面を開いてその明かりを照らした。
声の主はやっぱり友也で、眠っているはずなのに低く唸って、服の上から身体を掻きむしるようにして苦しそうに息を吐いていた。
驚いて、名前を呼んでも目を開けないので、僕は部屋の電気をつけて身体を揺する。
するとようやく、目を覚まして僕の顔を見ると弾かれたように飛び起きた。額は汗が玉のように浮かんでいた。
「大丈夫?」僕が声をかけるまで、友也は黙って頭を抱えながら息を整えていた。
「なんでもない」
なんでもなくはないだろう。
「怖い夢?」
「そんなもんだな…怖い鬼さんの夢だよ」とニヤッと笑う。
「子供扱いかよ」
「お前も今日で悪い子だから、鬼さんが来るよ」