W【番外編ATSUSHI④】
「なんだ…見たことあると思ったら俺の弟じゃないか、友樹」
弟。
友樹と呼ばれたこいつは、人あたりの良さそうな無邪気な笑顔をしながら、仁王像のように平気で人を踏みつけてナイフを向ける。
そして
「お前が逃げたせいで地獄だった」友也にナイフとともに突き出した右の腕には、友也の身体と同じ目も当てられない傷痕があった。
彼らは、幼い頃に両親に虐待されて育った生き別れの兄弟だった。
兄の友也は祖母に救われ、置いてこられたまだ幼かった友樹はそれから兄の分も虐待を受けて育ち、心の底からの憎悪を兄に向けていた。
そして、そうして培われた歪んだ愛情が、今はタクの婚約者に向けられていてどこかに監禁されているらしい。
僕はそっと後ずさりしながら、玄関近くの部屋のドアを少しだけ開ける。ドアの隙間から、ベッド脇に倒れる女の腕が見える。動かないが、肩が少し上下に動いていて息をしているのがわかった。
その時、廊下側に友樹に蹴られてタクが転がり、僕は姿勢を低くしたまま駆け寄って「いたよ、生きてる」と伝えた。
すると、それに気づいた友樹は目を見開いて歩み寄り
「逃がすなよ?殺すぞ」と僕の顔を力いっぱい蹴りあげた。
痛くて、息が出来ない。
今日、僕は死ぬのかも知れない。
行方不明の高校生は死体で見つかりましたなんて、悲しい結末だ。
しばらく動けなくてうずくまっていると、タクにナイフをつきつけていた友樹を引き剥がし、玄関で揉み合っていた友也が叫び声をあげて床に転がった。白いジャージのスボンがあっという間に真っ赤に染まる。
友樹は友也を刺して、転がるように外に飛び出した。
僕は思わず、反射的に追いかけようと立ち上がったが友也が「アツシ!!!行くな!!!!」と叫ぶ。タクも僕の肩に手を置いて「理沙を頼むよ」と言った。
友也は真っ赤な左足を引きずるようにして立ち上がって、タクと一緒に友樹を追いかけて行く。
「じゃあな、アツシ」
胸がザワザワと騒ぐ。
だけど、僕は絶対服従だ。
僕はここで、理沙を守らなければいけない。
胸のざわめきを打ち消すように、僕はリビングの椅子やテーブルを廊下に運べるだけ運んで、寝室の前にバリケードを作った。
その物音に気づいて理沙は目を覚ましたのか、寝室からドアを叩く音がした。
「開けて!誰か!何してるの?開けて!」少しパニックになって、ガタガタとドアを強く揺する。バリケードが揺れて崩れそうになるのをおさえながら僕は中に声をかけた。
「落ち着いてください、大丈夫だから」
一瞬、僕の知らない声に戸惑ったのか静かになる。
「誰?」
「あの…名前は言えません…言うなって言われてるから」
「どういうこと?」
「でも、味方なんで大丈夫です…絶対守るから…落ち着いてそこにいてください…どこか痛いとことかないですか?」
「…大丈夫」
ホッとしたその時、友也達が出ていってしばらく経ってからだ。玄関のドアが勢いよく開いて、友樹が帰ってきた。
「どけ!!!!」僕の肩をつかんで投げ飛ばし、寝室の前のバリケードを崩そうとする。
でも僕は、友樹のナイフを持つ手にしがみついた。
離す訳にはいかない。
「離せ!!!殺すぞ!!!」友樹は僕を引きずって、ベランダまで連れて行き、背中を手すりに押し付けて突き落とそうとする。
ただ、必死でその右手だけは離さないと思っていたけど、そうしているうちにフワッと足元が少し浮いた。
駄目だ。
落ちる。
その時、下から「アツシ!!!!」とタクが叫んで一瞬だけ友樹の力が弛む。
「助けて…」僕の叫びは声にならなかった。
背中が軋む。
気が遠くなりかけた時、友也が部屋に飛び込んできて友樹を僕から引き剥がして、「どけ!!!」と言って僕の背中をリビングに向かって蹴った。
そして今度は、友樹が手すりに押し付けられる形で揉み合う。
「やめろ!殺すな!!」タクが友也に飛びかかるけど、それも力いっぱい蹴りあげられ、僕のところまで転がった。
「殺さなきゃ終わらないんだよ!!!!」
そう言うと僕の顔をじっと見る。
友也は死ぬ気だ。
肩で息をしながら、顎をあげて合図を送る。
僕は頷いて、立ち上がろうとするタクを羽交い締めにした。
誰も見ていなかっただろうけど、友也は僕に、初めて会った時のような少し優しい笑顔をみせた。
目の前が霞む。
「離せ!アツシ!友也が人殺しになってもいいのか!!!」
僕は、ただ泣きながら頷くしか無かった。
「一緒に地獄に落ちてやるよ」
そう言って、僕を突き飛ばして駆け出したタクの手もあと少しで届かず
「友也!!!晴人!!!!!」
友也は弟と一緒に消えた。
僕は、なんの躊躇いもなく叫んで泣いた。
「泣いてる場合か…行くぞ」タクが自分も目を真っ赤にして、それでも力強く僕を抱き起こした。
「死んだとは限らないだろ」
タクに引っ張られるように階段を駆け下りた。
部屋のベランダの下、まっすぐ落ちた友樹は仰向けに倒れ、血溜まりの中でピクリとも動かなかった。
そのすぐ近くの植え込みで、うずくまるような形で友也は微かに息をしていた。
「死ぬな、友也」タクがそう言うと「無茶言うなよ」と、絞り出して少し笑うように言った。
そして、僕を見て
「ごめんな」
そう言って、動かなくなった。
僕は、友也の前に膝をついて
閉じなかったその目をそっと撫でると、眠ったような顔をした。
やっと、鬼に追いかけられずにゆっくり眠れるんだ。
胸を掻きむしって飛び起きることも、もう二度とない。
タクは、僕に家に帰れと言った。
お前は何も知らない。
誰も知らない。
友也のことも、何も知らない。
関係がない。
僕は首を横に振る。
「ボスに従えよ…逆らうな。お前は友也の影だろ?もう死んだんだ…」