妄想小説家panのブログ。

素人の小説です。

われても末に逢はむとぞ思ふ④

それから、僕はずっと本当に平凡に普通に生きてきたけど、高校生時代のことはなんとなく心の何処かでトラウマのようになっていて、思い返したくはなかった。

 

卒業アルバムも、一度も開かないで押し入れに仕舞い混んだ。

 

でもそのトラウマは消えることなく、僕にまた嫌な記憶を思い返させようとしていた。

 

僕は、10年振りに渉と偶然再会する。

 

それは終電近くの仕事帰り、歓送迎会で賑わう春の繁華街の夜道。ひとり歩いていると、目の前にすぐそこの居酒屋から出てきたであろうサラリーマン風の団体が集まって楽しそうに話し込んでいた。

僕はそれを避けようとしたけど、その中のひとりの酔っ払った女がふらっと千鳥足で歩み出てきて僕の肩にぶつかった。

 

自分でも少し怖い顔をして、その女を睨んだような気がした。

 

すると、その仲間のひとりがその女の腕を引っ張って「すみません」と僕に言った。

 

「いや…いいですけど…」

 

顔をあげて、一瞬はわからなかった。

 

「航平?」

 

名前を呼ばれて、確信する。

 

「渉」

 

「久しぶり」

 

そう言って笑った渉の表情と声は、あの時よりずっと柔らかくて穏やかそうで、名前を呼ばれなかったら気づかないくらいだった。

 

「知り合い?」

 

周りからそう聞かれて渉は「幼なじみ」と答えて「俺、こいつと話したいからみんなで行ってて」と、その集団から離れた。

 

笑顔でみんなに手を振って、その姿が見えなくなると急に真顔になって僕を見上げた。

 

「航平、元気だった?」

 

「まぁ…普通だよ」

 

「そっか。今、帰るとこ?電車?」

 

「うん…間に合うかどうかわかんないけど」

 

「あ、そっか。呼び止めて悪かったな」

 

「いや、いいよ。ダメ元だったし。渉は?」

 

「俺、車で来てるから。送ってってやるよ」

 

「飲み会あったのに車?」

 

「飲まない口実だよ。どうする?乗ってく?それとも…俺と2人になるのは怖いか?」

 

さっきまで、みんなと一緒にいた時の柔らかくて穏やかな笑みは消えて、上目遣いで口角だけをあげて、挑発するような笑顔で渉は言った。

 

僕が返す言葉を無くしたのを見て、声をあげて笑って「いいから来いよ」と先を歩き出す。

 

「終電、もうないんじゃない?」

 

癖になっているのか、渉の傷めた足を庇うような、少し重心のズレた歩き方は変わっていなかった。

 

「足は?」

 

「足?」

 

「もう痛くないの?」

 

「全然」

 

短い会話を交わしながら、車を走らせる渉の横顔を見ていると、何も変わっていないような気もしたし、別人のような気もした。

さっきまでの職場の仲間たちに見せていた大人びた優しそうな笑顔と、僕に見せる思春期の少年のようなに、はにかむような、それでいて挑発するような、人を見下すような伏し目がちな笑顔。今の渉の真実はどちらなのか、戸惑ってしまっている。

 

「航平は一人暮らし?」

 

「そうだよ」

 

「結婚とかしてないの?」

 

「してない」

 

「なんで?」

 

「別に…理由はないけど」

 

結婚願望があるとか、ないとか気にしたことはなかったけど、なんとなくだ。

そこまでの相手に出会えなかった。簡単に言うとそういうことだと思っている。

 

「渉は?」

 

「俺はしてるよ」

 

「え?マジで?」

 

「なんだよ、失礼だな」

 

「ごめん」

 

その会話は、僕の警戒心を緩めるには充分だった。

もう渉は、僕のことなんかなんとも思っていないと、さっきまでの緊張が顔から取れていくのがわかった。

 

気が緩んだ。

 

ただ、少し懐かしくなって

 

ただ、もう少し話したくなって

 

僕が渉を部屋に招き入れてしまったことは、もしかしたらそれも最初から、渉の筋書きにあったのかも知れない。それに気づいたのは、冷たい床に押し付けられて、渉の生ぬるい舌が僕の口を塞いだ時だった。

 

「油断しただろ」

 

渉は僕に顔を近づけたまま、そう言ってニヤッと笑う。

 

「やめろよ…」

 

「もっと抵抗していいよ、その方がゾクッとする」

 

渉を引き剥がそうとする僕の手首を掴んで、渉は少し捻ってみせる。そして、僕の痛そうにする顔を見て更に嬉しそうに笑う。

 

昔から、僕より身体の小さい渉の方が何故か力が強かった。

 

そしてその左手の薬指には、細めのシルバーの指輪がしっかりと巻きついている。

 

あの時と同じように

 

渉の頭が下に下がるのを止めようと手を伸ばすと、渉はそれを掴んで自分の頬に置いた。

 

嫌悪感とは裏腹に、頭の芯が痺れるように快感に襲われて、気持ちと身体の反応のズレに、腹ただしくなる。

 

「渉…」

 

思わず、無意識に名前を呼んだ。

 

「航平…気持ちいいの?」

 

渉は、上目遣いで嬉しそうに笑った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

われても末に逢はむとぞ思ふ③

「あの時、本当はちゃんと踏ん張れたんだ…でも…このまま落ちたら…辞められるって思った」

 

「なに言ってるかわかんない…なんでだよ…辞めたかったら辞めたら良かったじゃないか」

 

僕がそう言うと、渉はさっきまでとは打って変わって静かにこう言った。

 

「航平はさ…楽しいか?今」

 

その質問に答えられない僕を見て渉は笑った。

 

「ほら見ろ。楽しくなかったら辞めたらいいじゃないか…なんで辞めないんだよ。ずっとやって来たから?周りの目が怖いから?後悔するかも知れないから?逃げたと思われたくないから?そうだろ?」

 

渉は、いつも楽しそうだった。

 

誰よりも明るくて、誰よりも大きな声を出して、誰よりも真面目で。

 

なのに、その笑顔の裏側は、僕と同じだったんだと今この時になって初めて知った。

 

いや、本当は僕なんかよりずっと深い深い、海の底のような暗闇に沈んでいたのかも知れない。

 

厳しい練習について行くのがやっとで、それでも報われない日々に、唇を噛んで、僕よりずっと耐えてきていたんだ。

 

「航平のせいだよ」

 

「…俺のせい?」

 

「毎日毎日、もう嫌だったけど…航平がいたから、航平と一緒に居たかったから頑張ってたんだよ」

 

俺、航平のこと好きだよ。

 

あの時の渉の震えるような声が、今また僕の脳裏を掠めた。

 

渉は、あの時と全く同じ匂いがした。

 

「言わなきゃ良かった…わからないって言われて、航平と一緒にいることも辛くなったらどうしようもないのに、馬鹿すぎるよ俺って」

 

そう言うと、僕を睨んだままの渉の両方の眼から大きな涙がこぼれて、僕の胸を濡らした。

そして、そこに覆い被さるように渉は顔を埋めて声を上げて泣く。

 

やっぱり

 

僕のせいだ。

 

あの時、手を差し伸べて助けてあげていればと思っていた。

 

渉がバレーを辞めたのは、僕が助けてやれなかったせいだと心のどこかで思っていた。

 

でも、あの時にはもう遅かったんだ。

 

「渉…ごめん」

 

思わず、目の前の渉の頭を触ると、渉は顔をゆっくりとあげて、僕の顔に近づく。

 

渉の唇が僕の唇に触れる。

 

泣いた渉の頬が冷たい。

 

そして一度は顔を離して、今度はさっきより長くキスをしながら、渉は僕のベルトを外す。

 

「何してんの?拒めよ」

 

そう言って、顔をあげた渉はニヤッと笑ったけど、僕はもう拒めなかった。

 

僕がまた拒めば、今度こそ渉を壊してしまうような気がして怖かった。

 

「嘘だよ」

 

渉がそう言って笑って離れようとしたから、僕はそこから逃げれば良かった。逃げれば、また何もなかったようにやり過ごせたはずだった。

 

「昨日もそう言っただろ。本当に嘘なのか?またそうやって誤魔化して、俺のせいにして生きてくのかよ」

 

「…なんだよ、それ」渉の笑顔が歪む。

 

「無理に笑うなよ」

 

「お前こそ後悔するなよ」

 

そう言い捨てた渉の顔が降りていくのを、僕は途中まで見ていたけど、やっぱりどうしても怖くなって、目を強く瞑った。

 

あとは、ただその時が過ぎるのを待った。

 

無意識に僕の声が漏れる度に、渉の舌と手の動きが変わる。

 

「声聞こえるだろ、静かにしろよ」

 

渉は一度顔を上げ手を伸ばして、僕の口を塞いで、指を入れる。「噛んで、航平」言われるままにその指を噛むと、渉のもう片方の手に力が入り、僕はその腕を掴みながら、また更に強く指を噛んだ。

 

微かに、血の味がした。

 

渉が僕から離れた後、僕はただ呆然と部屋の天井を見上げた。

 

「ごめん…航平」

 

その僕を渉は傍に膝をついて座って、見下ろす。

 

「…帰る」

 

勢いよく起き上がって、目の前がぐるっと回ってまた倒れそうになったのを渉が支えて、強く抱き寄せた。

 

そして、小さい声だけどまるで叫ぶように

 

「ごめん。もう二度と近づかない。さよなら、航平」

 

と、言った。

 

幼い頃からずっと一緒だった、自分の半身のようにすら思っていた渉と僕は、その日、決別した。

 

 

 

伊村の件は、結局のところ伊村の虚言だった。

 

伊村は、クラス内でいざこざがあり孤立していて、その日も同じクラスの連中に絡まれ、もみ合ううちに階段から落ち、それを問い質された伊村だったが、本当の相手を言えばまた自分の立場が悪くなると思い、咄嗟に渉の名前を出したらしい。

 

渉なら、みんなが納得するだろうと。

 

例え渉が否定しても、その疑いは拭えないだろうと。

 

渉は、伊村を恨んでなんかいないのに。

 

むしろ、苦しみから解放させてくれたのだから、ある意味では感謝すらしているかも知れないのに、誰もそれを知らない。

 

そして僕は、部活を辞めた。

 

渉が僕と一緒にいられることを糧として頑張って来られたように、僕もいつか渉が戻ってくる日を待っていたのかも知れない。

 

その希望がなくなった今、僕にはもう苦しさしか残らなかった。

 

川田に辞める理由をしつこく問われたけど「辞める理由も辞めない理由もない」と答えた。

 

渉は、言った通りにそれから二度と僕には近づかなかった。

 

しばらくは、僕が噛んだ指に貼られた絆創膏が目に入ることがあったけど

 

話すことはもちろん、目が合うことすら一度もなく、学年が変わるとクラスも離れ、僕の生活から完全に渉は消えてしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

われても末に逢はむとぞ思ふ②

その翌日、教室で会った渉はいつもと変わらなかった。

僕の方を向きもしないで、いつもの仲間といつのように教室の後ろの席で笑っていた。

 

「うるさいな、あいつら」

「聞こえるよ、やめろよ」

 

僕の隣の席の川田が、登校して席に着くなり僕に向かって渉たちを見て言った。

 

川田も僕と同じバレー部で、真面目で頑固な性格故に、厳しい練習でも試合に負けた後でも明るく笑っていられる渉のことを、不真面目だと前から嫌っていた。

僕にとっては、渉のそれは士気の下がった仲間を鼓舞するためのものだとわかっていたし、実際は渉だって陰で努力していたし泣いていることも知っていた。

 

でも、それが理解できない人間もいるということだ。

 

「お前、今うるさいって言った?」渉の隣にいた間宮が川田に向かって言った。間宮は、渉と一番仲が良いが、一番喧嘩っ早くて面倒なやつだ。

 

僕は「ほら見ろ」とため息を着く。

 

「うるさいからうるさいって言ったんだよ」

「はあ?」

 

間宮が川田に歩み寄って、今にも掴みかかりそうになる。川田も負けじと間宮を見下ろす。

 

 

「やめろって」

 

 

一瞬、静かになった教室に渉の声が響いた。

 

「間宮、お前うるさいもん」と、いつものようにニカッと笑って歩み寄り、間宮の肩を抱いて川田から引き離す。

 

「ごめんね、川田。こいつアホだから」

 

川田は、渉に助けて貰ってにも関わらずそれを無視して舌打ちしながら席に座った。

 

その時、呼び出しの校内放送が入り、それは渉の名前を呼んだ。

 

「何やったんだよ、渉ー」

 

間宮たちが渉を茶化してまた騒ぎ初めたから、僕はまた川田が何か言い出さないかとハラハラして川田の顔を伺っていた。

 

渉は口の前で人差し指を立てて、「なんもしてないよ」と言って教室を出ていったけど、ようやく帰ってきたのは昼の休み時間が始まる頃だった。

「渉、どうした?」間宮たちがさすがに心配になって教室に帰ってきた渉に真剣な顔をして聞く。

 

「あーなんか、停学なんだって」

 

なんていうことない風にあっさりとそう言って、机に置いたカバンを肩にかけた。

 

「は?なんで?マジで何やったの、お前」

 

「知らねえ」

 

「知らねえってなんだよ」

 

間宮の問いに答えず教室を出た渉を間宮は追って行ったけど、僕はただそれを眺めるだけだった。

何があったんだろうと思ってはいたけど、今の渉なら何か問題を起こしたとしても不思議でもない。

 

間宮はその日、教室には戻らなかった。

 

 

 

「なぁ、渉何したと思う?」

 

部活の練習が終わって、体育館の裏の水道で顔を洗っているところに川田が現れて同じように顔を洗いながらそう言った。

 

「知るかよ」

 

「3年の伊村って知ってるだろ?」

 

「…伊村…あぁ、もちろん知ってる」

 

伊村は、渉に怪我をさせた張本人だから嫌でも知っているし覚えている。あの時、階段の手すりにしがみつきながら渉が落ちていくのを見ていた顔も、渉のカバンをつかんだ手の浮き出た血管すら今でもはっきり思い出せるくらいだ。

 

そして、渉を助けもせずに逃げ出した後ろ姿も。

 

「昨日の放課後、その伊村が階段から落ちて大怪我したんだってさ」

 

一瞬、川田の言葉の真意がわからなかった。

 

「…それ、渉がやったって言いたいの?」

 

「みんなそう言ってんだってさ」

 

「今さら、そんな仕返しみたいなことするかよ」

 

「まぁね、今更だよな…ま、本当かどうかわかんないらしいけど、それが本当だったら停学じゃ済まないからな。真相がわかるまでは執行猶予ってことだろ」

 

「バカバカしい」

 

渉が伊村を恨んでないとは言い難い。

 

いや、恨んではいるだろう。

 

不可抗力とはいえ、助けたからといってどうにもならなかったけど、結果的に自分から大切なものを奪っておいて、逃げ出したやつのことを許せなくて当然だろう。

 

だけど、もうずいぶん前の話だ。

 

仕返ししようというならもうとっくにやってるだろうし、そんなことをしてどうなるなんてわからないような馬鹿じゃない。

 

「変な噂ひろめんなよ」

 

僕がそう言うと川田は不服そうな顔をして「お前まだ友達だと思ってんの?もう関わるなよ」と吐き捨てた。

 

「ていうか…お前に関係ないじゃん」

 

友達だと思ってて悪いかよ。

 

濡れた前髪を力いっぱいタオルで拭って、まだ何か言いたそうな川田を無視してその場を後にした。

 

もし、渉が本当にそんなことをしたんだとしたら、昨日あんな風にひとりで何を思って海を眺めていたんだろう。

 

どう考えても、恨みを晴らして胸のつかえが取れたような顔には思えなかった。

 

バス停を降りて、渉と会った場所を通ったけどもちろんそこにいるわけはなくて、僕はしばらく渉と別れた場所に立って、会いに行くべきかどうか迷った。

 

本当にお前がやったのかって、聞いてどうするんだ。

 

やったと言ったら?

 

やってないと言ったら?

 

僕に何が出来ると言うんだろう。

 

それでも僕の足は、渉の家の方向へ向かった。

 

 

「何しに来たんだよ」

 

渉は制服姿のまま、家の庭でしゃがみこんでいた。

 

「何してんの?」

「草むしりさせられてんの」

「母ちゃんに怒られたからか」

「当たり前だろ、怒らない母ちゃんいるかよ。膝痛えって言ってんのに鬼だわ」

 

小さい声で「よいしょ」と言って立ち上がった渉は足でむしった草の束を端に寄せて、手についた土をパンパンと払った。

 

「渉!終わったの!?」

 

渉の家のリビングの大きな窓が開いて、渉の母親が眉間に深いシワを刻んだ顔を覗かせる。けど、僕の顔をしばらく目を細めて眺め、ハッとして笑顔に変わる。

 

僕が軽く会釈すると「航平くん、久しぶり」と本当に嬉しそうに手を振ってくれた。

 

渉は呆れたみたいに大きくため息をついて「とりあえず入る?」と背中を向けて、玄関のドアを開けた。雑にサンダルを脱ぎ捨てて、玄関からまっすぐ上がる階段を先に上っていく。

階段の上のすぐ傍の部屋に入ると、開いていた窓から涼しい風が吹き込んでいた。

 

何もない部屋だと思った。

 

勉強机と、ベッドと、テレビとゲーム。

 

特にこれといって趣味もなく、何にも興味もないという部屋だ。

ベッドの上のクッションを僕に投げて「勝手に座れ」と言って、渉は勉強机の椅子に勢いよく座って足を組んだ。

 

「俺やってないよ」

 

僕が聞く前に、渉は床に座る僕を見下ろして言った。

 

「じゃ、なんでだよ」

 

「知らねーよ、伊村が俺に落とされたって言ってんだってさ」

 

あの時、伊村は渉を助けずに逃げたけど、それで知らないふりを通せる訳もなかったから、先生たちもそのことをよく知っているし、伊村が渉にやられたと言ったのも納得出来たんだろう。

 

「それで?伊村の言うこと鵜呑みにされたわけじゃないよな?」

 

「そう。だから、はっきりするまでお休みしてなさいってさ。でも完全に疑ってるよね、これ」

 

「日頃の行いが悪いからだ」

 

僕のその言葉に、てっきり強く言い返すと思っていたのに、渉は口を尖らせて黙った。

 

「お母さんは?なんて言ってんの?」

 

「やってないって言ったし、信じるとは言ってる」

 

「それなら良かったじゃん」

 

「でも、お前と同じこと言った。日頃の行いが悪いからだってさ」

 

「俺も信じるよ」

 

口を尖らせたまま、渉は僕の目を一瞬だけ見て、椅子をくるっと回して背中を向けて「泣かしに来たのかよ」と小さな声で言った。

 

「そういえば間宮来た?」

 

「あーなんか追いかけて来たけど走って撒いた。うるせーもん」

 

「あいつカバン置いてったけどどうすんの」

 

「馬鹿だな、ほんとあいつ」

 

やっと渉が笑ったから、僕も安心して「じゃ、帰るわ」と立ち上がる。

 

「…ありがとう」

 

「なにが」

 

「気にしてくれて」

 

「当たり前だろ。じゃーな」

 

階段を降りていくと、待ち構えていたかのように渉のお母さんがリビングから顔を出して「もう帰るの?」と言った。

 

「また来ます」

 

「航平くんはまだバレーやってるの?」

 

「まぁ…一応…」

 

「あの子、辞めちゃってから学校の話とかも全然してくれなくて。前はうるさいくらいだったのにね。航平くん、仲良くしてあげてね」

 

「…はい」

 

小学生の頃、僕たちのチームの練習や試合を他の保護者の誰よりもサポートして応援してくれていたのは渉のお母さんだった。

元気で明るくて、一番声が大きくて、渉はお母さんに似たんだなと思っていた。

 

そんなことを思い出していたら、無性に寂しくなった。

 

無性に寂しくなって

 

渉に腹が立った。

 

何をやさぐれてるんだ、あいつは。

 

「ちょっと…忘れ物…」僕はそう言って、降りてきた階段を駆け上る。

 

力いっぱいドアを開けると、机の椅子にまだ座って背を向けていた渉がビクッとして振り向いた。

 

「なに…」

 

僕は渉のシャツの胸をつかんで、椅子から引きずり下ろす。そのまま渉を床に押し付けると、渉はその僕の手を掴んで引き離そうともがく。

 

「なんだよ!!!」

 

「お前さぁ!いい加減にしろよ!!!いつまですねてんだよ!!!」

 

「離せよ!」

 

渉に蹴られて、シャツを掴んでいた手が離れて僕は仰向けに倒れた。そして今度は、渉が僕の胸の上に馬乗りになる。

 

「なんだよ!お前に何がわかるんだよ!俺が辞めたのは怪我したからじゃねーんだよ!」

 

は?

 

どういうこと?

 

そう言いたかったけど、声は出ていなかったと思う。

 

「辞めたかったから!わざと落ちたんだよ!」

 

「…どういうこと…?」

 

やっと、絞り出すような声が出て、渉は僕の胸元を掴んでいた手の力を弛めて、深呼吸をして自分を落ち着かせようともう片方の手を自分の胸に当てた。

 

「本当は…あの時ちゃんと踏ん張れたんだ…」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

われても末に逢はむとぞ思ふ①

潮風が顔に強くあたって、砂が舞った。

 

僕は真っ直ぐ海を眺めていたけど、その砂が目に入りそうで顔を背ける。

 

その顔を背けた先にいるあいつは、舞い散る砂も強い風も気にしないで、ただ真っ直ぐ前を向いて、線の細い儚げな横顔を見せていた。

 

「渉、もう帰ろう」

 

渉はその声にこっちを向きもしないで、立ち上がって堤防から砂浜に飛び降りた。

 

「おい!危ない!」

 

砂浜に足をついて、膝からバランスを崩して、そのまま転がって、制服を砂まみれにして仰向けに寝転ぶ。

それを追って飛び降りた僕を見上げて渉は「こんな高さ、いくらでも飛べたのにな」と小さく呟いた。

 

「歩けるか?」

 

渉は、僕の少し後ろを傷めた足をかばいながら歩く。僕は渉のカバンを持って、少し歩く速度を緩める。

 

「航平と話すの久しぶりだな」

 

「そうだな、前は毎日バカみたいに喋ってたのにな」

 

渉とは小学校からの幼なじみで、中学高校と同じ部活にも入っていたくらいだけど、渉が部活を辞めてからは、ほとんど話すこともなくなってしまった。

 

小学生の時に地元のバレーボールクラブに入団して、明るくて人懐っこくていつも周りに人がいた渉と、人見知りで引っ込み思案だった僕とでは対照的だった。でも、2人とも誰よりも真面目に休まずに練習に参加していて、高学年になって、僕がキャプテンで渉が副キャプテンになった頃には、誰もが認める親友同士だった。

 

中学でバレー部に入って、3年間2人とも部活に熱中して過ごした。

 

そして、高校も当たり前のように地元の強豪校に入学したけど、高校では今までのようにはいかなくて、練習もずっと厳しいし、中学ではエースアタッカーだった僕よりずっと身長の高い奴らがいっぱいいて、自信を無くして、あんなに楽しかった部活の時間がただただ憂鬱になっていった。

 

でも、渉は僕より背も小さかったし、試合に出るどころかベンチに入る機会もほとんど無かったのに、それでも変わらず明るくて誰よりも声を出して、先輩達にも可愛がられ、チームのムードメーカーだった。

 

「足、大丈夫か」

「もう慣れた」

 

渉は身長は低かったけど、僕よりもずっと高く軽く跳んだ。

高く跳んで、滞空時間も長くて、フォームが綺麗で、見蕩れるくらいだった。

 

そんな渉が変わってしまったのは、足を大怪我して部活を辞めてからだ。

 

そこからは、僕がこれまで知っていた渉ではなくなってしまった。

 

その日、渉と僕は部活に行くために校舎の三階から外階段を降りていた。そこに、後ろから友達同士でふざけあって階段を降りてくるやつらがいて、渉と僕はそれを避けて、追い抜かさせた。

 

その時、そのひとりが足を滑らせて、咄嗟に渉の背負っているリュックを掴んだ。部活用のリュックは重くて、それをきっかけにバランスを崩して、渉は落ちていった。

 

一瞬、ぐっと膝に力を入れてこらえようとしたけど、勢いは止まらず、身体をひねりながら、踊り場まで落ちた。

 

僕はそれを呆然と見ていることしか出来なかった。

 

渉を掴んだやつは、階段のてすりにしがみついて、三段ほど踏み外して止まった。

 

渉は膝を負傷して、しばらく歩けなくなって、部活の練習にも参加出来なくなって

 

誰よりも真面目にひたむきに頑張って来た渉の気持ちは、その時にポッキリと音を立てて折れたのだと、後に本人が言った。

 

正直、さっきの堤防の高さから跳んで立てなかった渉を見て、心が痛んだ。

 

渉は相変わらず、明るくていつも笑ってはいたけど、部活を辞めてからは付き合う仲間がすっかり変わってしまった。

 

典型的な話だ。

 

いわゆる、悪い仲間と付き合いはじめて、同じクラスの僕ともほとんど話すこともなくなった。

 

お互いに、話したくなかったんだろう。

 

僕もなんて言えばいいかわからなかったし、渉も後ろめたさがあったんだと思う。

 

それに僕にも後ろめたさがあった。

 

あの時、僕が教室に忘れ物をしたから、渉はそれを待っていてくれていた。もし、僕が忘れ物なんてしなかったら、渉に待ってもらっていなかったら、あんなことにはならなかったんだと。

 

今日、渉に会ったのは偶然だ。

 

最寄りのバス停から、海沿いの通学路を歩いている途中で、堤防に座って、まっすぐ海が波打つのを見ている渉の背中を見つけた。

 

ひとりでいるところが珍しくて、そして悩んでいるような怒っているような横顔が気になって、思わず声をかけた。

 

「渉」

 

眉間に皺を寄せたまま渉はこっちを振り返って、無言で手を振る。

 

そこから、なんてことない会話が始まって、今に至る。

 

傷めた足を着いて転んで、しばらく立てなかったのを手を貸して起こして、横には並ばずに僕が先に帰り道を歩く。

 

「戻って来ないの?渉」

 

「なんで?戻るわけないでしょ」

 

「そっか」

 

「スポ根漫画じゃないんだからさ、今さら心入れ替えて頑張りますなんて、絶対ねーから」

 

もう何回も何回も聞かれてうんざりしている質問に、少し渉は苛立って言った。

 

 

「でもさ、航平」

 

 

ふいに名前を呼ばれて、振り返る。

 

 

「俺、まだ航平のこと好きだよ」

 

 

渉は、真っ直ぐに僕を見てそう言った。

 

 

「…つってね」僕があからさまに動揺した顔をしたので、渉はニカッと笑って「嘘だよ。もう忘れた。カバン、ありがとう」と手を差し出した。

 

渉の笑顔が僕に向けられたのも、久しぶりだった。

 

渉のカバンを肩から外して渡すと、「じゃあな」と僕を追い抜いて行った。

 

渉の後ろ姿を見送りながら、胸がザワつく。

 

俺、航平のこと好きだよ。

 

そう言われたのは、渉が怪我をするほんの少し前のことだ。

 

背中から腰に手をまわして抱きつかれて、ずっと好きだったって、驚いて振り返って顔を見たら、あまりに思い詰めた顔をしていたから、振りほどくことも出来なかった。

 

何か言ってあげなくちゃいけない。

 

なんて言えば、渉を傷つけないで済むんだろう。

 

焦りながら、それでも必死に考えて、やっと僕の口から出たのは

 

「ごめん…俺、よくわかんないや」

 

それだけだった。

 

それでも、渉はその言葉で表情を和らげて「だよな」と手を離した。僕の鼻先に漂っていた渉のシャツの洗剤の匂いも離れていった。

 

そして、「ごめん、忘れて」とさっきみたいにニカッと笑った。

 

だから

 

僕に好きだと言ってから、渉はそんなことも忘れたかのようにいつもと変わらなくて、僕も出来る限りそうしたけど、やはりふとした時に思い出して、渉と目を合わせられない時もあった。

 

だから、渉が怪我をして部活を辞めて、僕から離れていったことで、少しホッとしている自分もいた。

 

でも、何故だろう。

 

渉から、忘れたと言われた時、少しだけ胸が痛んだような気がした。

 

 

 

 

 

remember anotherstory【蓮⑩】

「蓮はちゃんと亮太さんが好きで、決してたぶらかされたとか騙されたとかじゃないって、認めざるを得ないのよ。だから、私が両親にはちゃんと言うから…すぐには無理かも知れないけどちゃんとわかってもらうから許してくれる?」

 

僕が亮太のほうを見ると、その視線に気づいて亮太は「こっち見るなよ、自分がどうしたいの?」と俯いたまんま言った。

 

「…わかってくれたんだったらもういいけどさ、でも家には帰らないよ?ここで亮太と一緒にいたい」

 

「それも説得する」 

 

「俺もちゃんと姉ちゃんの話聞かなくてごめんね」

 

 

 

 

 

「そろそろ…帰らないと。蓮、ちゃんとまたこっちにも顔出してくれるんでしょ?」

「うん…まぁ…もうちょっとだけ気持ち整理する時間は欲しいけどね。そのうちね」

 

すっかり時間も遅くなって、姉は慌てて帰る準備をした。

 

「送って行くよ」

亮太が上着を着て、玄関脇にかけてある車の鍵を手に取った。

 

「小さい子いるんでしょ?早く帰ってあげなきゃ駄目じゃん」

 

「いいの?亮太」

 

「蓮も着いて来てよ?」

 

姉を後部座席に座らせて、僕は助手席に乗り込み、姉を家の少し手前まで送った。その間、亮太は一言も話さなかった。

 

「ありがとう…またね、蓮」

「うん、じゃあね」

 

姉の歩いて去っていく後ろ姿を見て亮太が「子供らに会わなくていいの?」と言ったけど、姉が謝ってくれたとはいえ、まだどうしてもほんの少しのわだかまりがあって、舞香や裕太に触れることが怖く思う。

 

「そのうちね」

 

「でも、良かったんじゃないの?ちゃんと心配してもらえて、蓮は幸せだよ」

 

「うん…そう思う」

 

「あのさ…ごめん」

 

「なに?」

 

「俺、めっちゃ意地悪だった…」

 

「いいよ、それより姉ちゃんのこと許してくれてありがとう」

 

「許すも何もないよ。蓮がいいならそれでいい」

 

僕たちの部屋に帰りついた頃には、亮太は疲れていて、寝室に直行して倒れ込むように転がった。

 

「着替えなよ、子供じゃないんだから」

 

僕が手を出して起こそうとすると、逆に僕の腕を掴んで引っ張って自分の顔の傍に座らせて「怒ってない?」と聞いた。

 

「何を?」

 

「さっきも言ったけど、蓮の姉ちゃんに意地悪なことばっか言ったじゃん…蓮にも…俺って性格悪いな」

 

「反省してんの?」

 

「してる」

 

「じゃ、いいよ…性格悪いのは初めから知ってる」

 

「あのさ!」

 

急に亮太が起き上がって、僕と向かい合う。

 

「なに?急にデカい声出さないでよ」

 

「ごめん…」

 

急に大きな声を出して起き上がったかと思うと、俯いて僕の腕を掴んで泣き出すから、僕は思わず笑ってしまう。

 

「なに?情緒不安定すぎない?今度は何に謝ってんの?」

 

「謝ってないことあるじゃん」

 

「なんだっけ」

 

亮太は僕の腕を更に強く、痛いくらい掴んで

 

「一瞬だけど…あの時、蓮のこと殺してやろうって思った」

 

「…あれね」

 

「うん…ごめん」

 

「なんで?俺のこと憎くなったの?」

 

「違う」亮太が子供みたいに泣きじゃくりはじめたから、僕は少し笑ってしまって、亮太の頭を撫でる。

 

「離れなきゃいけないくらいなら一緒に死にたかった」

 

「そっかぁ…じゃ、言ってくれたら良かったのに。別にそれでも良かったのに」

 

亮太は僕にしがみついて、泣きじゃくる。本当に子供みたいで、意地が悪くて、強がりで、弱くて、儚い。

 

「でもさぁ、俺は一緒に生きてて欲しいかな…どっちかって言うと」

 

僕にしか見せない、その弱さを、守り抜いてあげたいと思う。

 

「ありがとう、蓮」

 

僕はずっと、その日は亮太が眠るまで隣で寄り添って、その綺麗な寝顔を夜が明けるまで、飽きもせずに見つめた。

 

顔を撫でると、確かにそこに体温を感じて、生きていてくれて良かったと、戻ってきて良かったと、気持ちが昂って、その綺麗な色の唇にキスをする。

 

「…なにしてんの」亮太が目を閉じたまま笑った。

 

「起きてたの?」

 

「ちょっと前からね」

 

「最悪…」僕は恥ずかしくなって、亮太に背を向けて寝転ぶ。

それを亮太が、後ろから腕をまわして顔を覗き込んで「蓮がキスしてくれるの待ってた」と言って、僕のTシャツの中に手を入れる。

 

「くすぐったい」

「じゃ、やめる?」

 

「やっぱり亮太って、意地悪だね」

 

温かい手で僕を撫でながら「はじめての時のこと覚えてる?」と亮太が聞いた。

 

「覚えてないよ」

 

覚えてないわけなんかない。

 

「震えてて、怖がってて、可愛くて、俺がちゃんと守ってあげようって思ったのに、俺が蓮に守られちゃってるね」

 

「守るよ、亮太のこと」

 

 

 

 

 

朝になって、いつの間にか眠っていた僕が目を覚ますと、隣に亮太はいなかった。

 

慌てて飛び起きて、リビングに行くと、几帳面な亮太には珍しく、脱いだ服がソファーの背もたれに無造作にかけられたままだった。

 

その光景に、亮太がいなくなった時のことを思い出す。

 

電話をかけてみると、しばらく呼び出し音が鳴って「なに?」と少し不機嫌な声が返ってきた。

 

「どこ行ったの?出かけるって言ってた?」

 

「言ってなかった?」

 

「聞いてない」

 

「仕事の面接。いつまでも無職でいられないでしょ?…寝坊して焦って散らかして出てきちゃったからごめん」

 

「マジで聞いてないし…」

 

「前に話したでしょ?ずっと前に辞めちゃったとこ…やっぱり本当にやりたかったことだったし、もう1回戻れないかなって思って前の上司に相談したら、とりあえず来てみなって言ってもらった」

 

「でも…大丈夫?…だって…」

 

「大丈夫。例え周りになんて思われて、なんて言われても、もう平気だよ。…だって帰ったらひとりじゃないでしょ?」

 

「うん」

 

「守ってくれるんでしょ?」

 

「うん…」

 

「まぁ、受かったらの話だけどね」少し声が緊張していた亮太が笑ったから、僕はやっと安心して「頑張って」と言った。

 

「うん、じゃあね」

 

電話を切って、亮太が珍しく脱ぎっぱなしにした服を洗濯機に放り込んだ。

 

やっと、亮太が生きていてくれる気になったんだと、安心したら気が抜けて、洗濯機を回しながら、洗面所の床に座り込んで歯を磨いた。

 

「良かった…ほんとに…」

 

不安だった。

 

亮太が帰ってきてからも、どんなに明るく笑っていても、どこか暗い顔をする時があって、どこか違うところに心があるような時があって、また突然いなくなるんじゃないかって、ずっと不安だった。

 

自分から、敢えて茨の道に一歩踏み出そうとするその亮太の声は、ひとつの曇りもなくて、しっかりと顔を上げて前を向いているように聞こえた。

 

 

 

とりあえず今日は、亮太が笑って帰ってきても、泣いて帰って来てもいいように、部屋を綺麗に片付けておこう。

 

そして、学校の帰りには亮太の好きなものを買って帰ろう。

 

帰ってもいないんじゃないかなんて不安はもう捨てよう。

 

何があっても

 

一緒にいよう。

 

 

 

【おわり】

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

remember anotherstory【蓮⑨】

すると、後ろから誰かが追って出てきて、呼び止められた。

 

振り返ると、さっき僕に対応してくれた女の人と、亮太の友達だと言う男の人がいて、僕はその人を見たことがあった。

 

最初に亮太と出会った時に、亮太と一緒にいた人だ。

 

高畑と名乗ったその人は、僕のことを全く覚えていなかった。でも、僕が亮太と一緒に暮らしていたことを知っていた。

 

亮太が何処に言ったのか教えて欲しいと口に出した途端、僕はほとんど初対面の人の前で泣いてしまった。

高畑は、自分も何も分からない、でも亮太を心配しているから話を聞かせて欲しいと言った。

 

その日は、まだ学校の授業もあったし長く休んでいたアルバイトの予定も入っていたから、夜遅くで良ければと待ち合わせをした。

 

手がかりは何もなかったけど、僕と同じように亮太を心配している人がいるだけで嬉しかった。

 

この日は、平日だったのであまりバイトは忙しくはなかったけど、しばらく動いてなかったかし休んだ後だったから気持ち的にも疲れていた。

 

でも、なんの手がかりにもならなくても高畑に会って話をしたかった。

 

約束の時間より少し遅れて待ち合わせ場所に行くと、高畑と、昼間に会った女の人が待っていた。

高畑は、その人を沙和と呼んでいたけど恋人同士ではないようだった。

 

僕は、亮太がいなくなった時の話を出来るだけ詳しく話したけど、ただひとつだけ嘘をついた。

いなくなる前の日、うちの両親と亮太が話した日、普段と何も変わりはなかったと言った。

 

首を絞められたことなんて、言えるわけなかった。

 

冷静に話したかったけど、ふたりとも何も口を挟まずに、それでも心配そうな顔をして、今にも泣き出しそうな顔をして聞いてくれるから、僕も堪えきれなかった。

 

僕だけじゃなくて、こんなにも心配してくれている人が亮太にはいたことがわかって嬉しくもあったし、そんな気持ちも知らないで何処に行ってしまったのかと悔しくもあった。

 

そして高畑は「何もわからなくて申し訳ない」と言って、でも心配で仕方がないから何かあったら連絡をして欲しいと言って、連絡先を教えてくれた。

 

「亮太から連絡あったとかじゃなくていいから、誰かに吐き出したいことがあったらでもいいから、連絡して。俺で良かったら聞く。追い詰められる前に話して欲しい」

 

そう言った。

 

亮太がいなくなる前に会っていたのに、その時には亮太は辛い想いを隠していたのに、何も気づけなかったことを悔やんでいるようだった。

 

亮太の部屋で、帰ってくるのを待ち続けるのは考えただけで気が狂いそうだった。

ここで待っていたいけど、いつ来るかわからないその時まで、亮太との想い出が溢れるこの場所でひとりでは暮らし続けられない。

 

仕方がなく、僕は不本意ではあるけど一旦実家に帰ることにした。

 

僕が帰ってきたので、母は安心した顔をしていたけど父は仕事に出ていていないようだった。僕が出ていったことで母を心配した姉も、一番下の子だけを抱いて出迎えた。

 

「舞香と裕太は?」

「学校と保育園に行ってる」

「あんまり放ったらかしにするなよ、可哀想だろ」

「だって、心配じゃない…」

僕は、姉と母の前に座って「安心していいよ」と言ってやった。

 

「亮太はいなくなった。これで満足だろ?」

 

「いなくなった?」

 

「そう、どこにもいない。父さんにも言っておいてよ」

 

僕が立ち上がると、姉が腕を掴んで「ちょっと待ってよ」と引き止める。

 

「なに?もう出ていかないから離してよ」

 

「お父さんもお母さんも蓮が心配だったから…」

 

「だから良かったじゃんって言ってんの!お前らの望んだ通りだろ!」

 

勝手に、こんなに簡単に引き裂いておいて、心配したからなんて理屈が通るわけがないだろう?

 

僕は、実家で暮らしながら、日常を取り戻していった。

 

ただ、家族とはほとんど話さなかったし、姉が子供たちを連れて来た時には部屋から出ないようにした。

舞香も裕太も、僕がいるのに出ていかないので、寂しそうだと母が言った。

舞香も裕太も可愛かったし、会えないのは寂しかったけど、僕にだって許せないことはある。子供たちに触れるなと言われたことがどれだけ僕を傷つけたか、そんなこともわからない。

 

亮太がいなくなって、1ヶ月ほどが過ぎた頃に高畑から連絡があった。

彼は、とても言いにくそうに言った。

 

亮太が見つかったと。

 

ただ、亮太は自殺未遂を図ったんだと。

 

半分くらいは…いや、半分なんかじゃなくて、そんな気はずっとしてた。

 

亮太が最期に選んだ場所は、僕も知っていた。

 

亮太が、どこか出かけたいところはあるかと聞いてくれた時に、いい天気だったから海に行きたいと言った。

子供の頃、僕は家族と海の近くに住んでいて、中学生くらいまでは遊び半分で友達とサーフィンにハマっていたことがあった。

だから、久しぶりにやってみたいなと言ったら、亮太は「全然、興味無い」と言って嫌そうにしながらも連れていってくれて、でも亮太は僕が海に入るのをずっと砂浜に座ってつまらなさそうに見ていた。

でも、僕の気が済むまで付き合ってくれていた。

 

そんな、亮太にとってはつまらなかった思い出の場所を選んで、彼は死のうとした。

 

間違いないのは、ずっと僕のことを想ってくれたということだ。

 

亮太は死にたかったんだろうけど、僕は本当に死なないでいてくれて良かったと、心の底から思った。

 

今すぐにでも会いたかったけど、高畑がそれを止めて、今は亮太がどんな精神状態でいるかもわからないから、先に自分たちに会わせて欲しいと言った。蓮に会わせられると思ったら、連絡するから待っていて欲しいと。

 

その電話を切って、僕は自分の部屋から出て居間にいた父と母に「ごめん…俺やっぱり出ていくね」と言って家を飛び出した。

 

待っているなんて出来なかった。

 

会いに行ったとしても、亮太がまた僕を受け入れてくれるとも限らなかった。

 

でも、その時は僕が死のうと思っていた。

 

実家から亮太の家までは少し遠く、焦る気持ちを必死に抑えてたどり着いた時、高畑と沙和が駐車場から出てくるところに出会った。

咄嗟に建物の影に隠れて見過ごして、その姿が見えなくなってから、亮太の部屋の前まで行く。

 

疲れて、その場に座り込んで、膝を抱えて高畑たちが出てくるのを待った。

 

中から、微かに話す声がした。

 

それは、僕にとってはとても長い時間に思えた。

 

静かにドアが開いて、慌てて僕は顔をあげた。

 

「いつからそこにいたの?」

 

高畑は呆れたように言って、手を差し伸べてくれたから、僕はその手を取って立ち上がる。

 

「ごめんなさい…どうしても我慢出来なくて…」

 

僕たちの話す声に気づいて、一度閉まったドアがまた少し開いた。その隙間から亮太が僕を見つけて咄嗟にドアを思い切り閉めた。

 

でも、高畑がそれより一瞬早く足を差し込んで、ドアは閉まりきらなかった。

 

僕はその隙間にしがみついて、目の前にいる亮太にぶつかるように抱きついた。何も考えずに、ただ衝動的に抱きついた亮太の身体は前よりずっと痩せていて、それでも胸の鼓動が聞こえて、確かに生きていた。

 

「どこ行ってたんだよ…」

 

言いたいことはもっとたくさんあった。でも、僕の口からはようやく、その一言だけが出てくるのがやっとだった。

 

亮太は、少し躊躇いながら僕の背中に腕をまわして「ごめん…」と小さく言った。

 

格好悪いけど、僕は子供みたいに大きな声で泣いた。

 

 

気づくと、高畑たちはいなくなっていて、亮太に手を引かれて部屋に入る。

 

部屋は、やっぱり綺麗に片付けられていて、いい匂いがした。

 

まだ泣きじゃくっている僕を座らせて、僕の前に亮太が向き合って座って、僕の両手を握る。

 

「ごめん…蓮」

 

僕は首を横に振って、謝るのは僕の方だと言った。

 

「ごめん…亮太のこと信じなくて…亮太のこと守れなくてごめん」

 

「俺のこと探してくれたんだろ?聞いたよ。なのに、勝手に死のうとして俺って馬鹿だね」

 

亮太は目にいっぱい涙をためて、僕の手を力いっぱい握る。

 

「蓮…」

 

「なに?」

 

「戻って来てくれるの?」

 

「どうしたいか言ってよ。そういう言い方は嫌いだって、亮太が最初に言ったんだろ?」

 

亮太はやっと笑顔を見せて「そうだった」と言った。

 

「戻って来て、蓮…」

 

僕はまた、声を上げて泣いて亮太にしがみついた。

 

「ごめんね、蓮…本当にごめん…大好きだよ」

 

亮太も僕の背中を撫でて言った。

 

 

亮太の痩せた手首に、まだ包帯が巻かれていて、僕がそれを触ると「ちょっと切りすぎちゃった」と笑いながら言うから少しイラついてしまって、ぐっと力を入れて握った。

 

「痛いよ、ごめん」

 

「なんで、あんなところで死のうと思ったの?亮太には楽しかったところじゃないでしょ?」

 

亮太は少し考えて

 

「蓮が楽しそうだったからかな。だから全然、退屈なんかじゃなかったんだよ」

 

そう言って笑うと、ずっと亮太の目にたまっていた涙がボロボロと溢れて、亮太は顔を伏せて「本当にごめん…」と何度も言った。

 

 

でも、それで元通りというわけにはいかなくて、家を飛び出した僕を姉が追ってくるのは予想がついていた。

 

亮太が帰ってきて、僕と亮太がまた一緒に暮らし始めて1週間が過ぎた頃だった。

 

「いい加減にしてよ、蓮」

 

訪ねてきた姉を亮太には会わせたくなくて、玄関の外で2人で話した。

 

「いい加減にして欲しいのはこっちだよ、ほっといてよ」

 

「違うの、いい加減に話を聞きなさいって言ってるの…ろくに顔も見ないし話も出来ないじゃない」

 

「話したくない」

 

「だったら、私も無理やりにでも連れて帰る。ここで騒いで欲しくなかったらちゃんと話をさせなさい」

 

「脅すの?」

 

「こうでもしないと話せないでしょ?」

 

 

その話をドアの向こうで聞いていたんだろう、ゆっくりドアが開いて亮太が顔を覗かせて「いいよ、入って」と言った。

 

「亮太、いいよ」

 

「騒がれたら困る、入って」そう冷たく言って亮太は部屋に戻る。

 

仕方なく、姉を部屋に入れる。

 

ちょうど夕飯の片付けをしようとしていたところだったから、亮太はキッチンに戻っていつも以上に神経質に調理台の水しぶきを拭き取っていた。

 

そして、手を洗って「勝手にどうぞ。俺はあっちに行ってるんで」と寝室に入ろうとしたけど、姉が呼び止めた。

 

「謝らせてくれる?」

 

「…お姉さん、いくつですか?」

 

「30だけど」

 

「蓮と離れてんだね」

 

「それがなに?」

 

「謝るって言ってるわりに偉そうだなって思って」

 

亮太は冷たくそう言うと、音を立てて寝室のドアを閉めた。

 

「…だってさ。いつもはあんなに意地悪じゃないよ、亮太は。それだけ怒らせたってことだよ、わかる?姉ちゃん」

 

「…じゃあ、どうしたらいいの」

 

「謝って済まないんだって…あんた達のせいで…」

 

「蓮!余計なこと言うな!」寝室から亮太の声が聞こえた。

 

「言わなきゃわかんないだろ!?」

 

僕の答えに反応して、壁を殴る音が響く。

 

僕は、少し声を落として姉に言った。

 

「亮太…死のうとしたんだよ…」

 

亮太の棘のある話し方にあからさまに気を悪くして眉間に皺を寄せていた姉も、動揺した顔をした。

 

「理解できないなら、放っておいてよ…頼むよ」

 

姉は、大きくため息をついて

 

「ごめん…本当に今日は謝りに来たの。でも、蓮がちゃんと話をしてくれないから、ついイライラした。ごめんね。だから、会わせてくれない?」

 

「亮太に?」

 

「そう」

 

「無理だよ…俺だって怖いもん…あんなに怒ってたら」

 

「お願い。もちろん、あんたにもちゃんと謝る」

 

恐る恐る、寝室のドアをそっと開ける。

 

「亮太」

 

名前を呼ぶけど、亮太はベッドに寝転んでイヤホンで音楽を聴きながら…というより耳栓代わりにして本を読んでいたから聞こえないようだった。

 

気配に気づいて、一瞬だけこっちを見たけどまたすぐに視線を本に戻す。

 

「亮太ってば」僕は隣に座って片方のイヤホンを外す。

 

「姉ちゃんの話、聞いてやってくれる?」

「嫌だ」

「どうしても?」

「どうしても。俺は場所を提供しただけ、話す気はないよ」

「そっか…そうだね」

「あっちがすっきりしたいから謝りたいんだろ?俺になんの得があるの?」

 

「…わかった、ごめんね」

 

亮太は僕の手の中のイヤホンを奪って、僕の顔を見上げた。そして、本を閉じて枕元に置く。

 

「ずるいよ、お前。そんな悲しそうな顔するな」

 

「怒ってるのはわかる。でもそんな意地の悪い亮太は嫌いだ」

 

「だったら、もう出ていけ」

 

「わかった」

 

意地の張り合いなのはわかっていた。

 

でも、ただ悲しくて腹が立って、自分で知らないうちに勝手に涙が出て来た。

 

嫌いとか、出て行けだとか、本心じゃないってこともわかっているけど、僕は結局は姉も亮太も大事で、その板挟みになっているどうしようもない状況が苦しかった。

 

「ごめんって…悪かった」

 

亮太は大きくため息をついて、僕を置いて寝室を出て行く。

 

「どこ行くの?」

「お前が姉ちゃんと話せって言ったんだろ?」

「いいの?」

「ちゃんと泣き止んでから出てこいよ、姉ちゃんに怒られるの俺だよ」

 

今、姉と亮太がドアの向こうで、どんな顔で向き合っているのか気になったけど、亮太に言われたとおりに僕は少し落ち着くのを待って、顔を拭いた。

 

しばらく、何も話し声は聞こえなかった。

 

ドアを少しだけ開いて隙間から覗くと、亮太の背中が見えてその肩越しに姉の顔が見えた。姉が意を決して口を開こうとした時、亮太が俯きがちに

 

「すみませんでした」と、言った。

 

僕も姉もその言葉に驚いて、しばらく言葉を失ってしまう。

 

「蓮のことをたぶらかしたとか、拐かしたとか、それは返す言葉がない。その通りだと思う」

 

「は?なに言ってんの、亮太」

 

亮太は振り返って「出てくんの早いよ」とため息をついて「とりあえず黙ってて」と僕を止めて、姉に向き直る。

 

「だから、そこは謝ります。俺は蓮よりずっと大人だし、もうちょっと考えて行動すべきだったところがあると思う」

 

姉は、少し困って僕の方を見る。

 

「だから…謝って欲しいのは俺にじゃなくて、蓮に謝って欲しい」

 

「蓮に…?」ようやく、姉が口を開く。

 

「そう。蓮はあんた達のことを信用してわかってくれるって信じて全て話したのに、蓮の知らないところで裏切っただろ?」

 

「ごめんなさい…」

 

「あと…怒るって言うか…怒ったんじゃなくて情けなかったのは、金で解決出来るって思われたのはキツかったかな…俺の蓮に対する気持ちが全否定された気がする。ていうか、駄目だよそんなことしちゃ、普通に最低だよ」

 

「それは…本当にそう思います」

 

「だから、お互い様ってことでいいじゃん、これで話は終わりね…」そう言って、亮太は立ち上がろうとした。

 

「いや、違うじゃん、なんで亮太が謝んの?」

 

「うるさいなぁ…」

 

「たぶらかしたとか何?そんなんじゃないじゃん、俺が亮太のこと勝手に好きになったんだろ?」

 

「俺がそう仕向けなかったら言わなかっただろ?」

 

「たぶらかしたとかじゃないじゃん、それは」

 

「ちょっと待って」僕たちが言い合っているのを姉が間に入って止めた。

 

「それは私も蓮の言う通りだと思う。ちょっと…私の話を聞いてくれる?」

 

亮太は返事せずに、立ち上がってキッチンに移動して冷蔵庫を開けた。

 

「長くなる?」

 

「ちょっとだけ」

 

「じゃ、喉乾いたからお茶入れてからね。蓮も飲む?」

 

僕が頷くと「自分で入れろ」と言われて、僕もキッチンに移動して、冷たいお茶を入れたグラスを姉の分もテーブルに置いた。

 

亮太はキッチンで立ったまま、一気にお茶を飲み干して「いいよ、どうぞ」と言った。

 

「最初は蓮から話を聞いた時には本当にショックだったのよ…だから、蓮にひどいこと言った…ごめんね」

 

「なんて言ったの?」

 

「…裕太…うちの子供たちに触るなって言った」

 

「最低じゃん」

 

「そう。本当に最低。でも本当に理解出来なくて…というより自分の弟だからこそ受け入れられなくて、だから父と母を止められなかったの。私もそれが正しいと思ってたから」

 

姉は、グラスに手を伸ばして口をつける。

 

「でも、帰って来てからの蓮はすっかり人が変わっちゃって…部屋から出てこないし、私たちを無視するかと思ったら、怒り出すし…私たちはとんでもないことしたのかって思い始めて。そりゃ普通はそうよね、自分たちが認められないからって勝手に好きな人から引き剥がすなんて考えられないもんね。でも、そう思った頃には蓮はもう話もさせてくれなかったのよ」

 

亮太は立ったまま、腕を組んで俯いて話を聞いていた。

 

「それで、また急にこうやって出ていっちゃったでしょ?もう帰って来なかったらどうしようかと思って…とりあえずまだ私の中では納得してないけど、蓮が帰ってこなくなるのは嫌だから、とにかく話をしたくて来たのよ」

 

「蓮がそんなに大事なんだ」

 

「当たり前でしょ?」

 

「…まぁ…当たり前じゃないけどね…ま、いいや続きどうぞ」

 

「なんか、ここに来てあなた達見てたらわかんなくなって来たのよ、ほんとに。なんなの?お互い庇いあってさ、蓮のために私に怒ったり、謝ったり…こんなに蓮のこと大事に思ってくれてる人に酷いこと言って、無理やり別れさせようとしたりして…もう…本当にごめんなさい」

 

「姉ちゃん…」

 

姉が僕に謝って泣くなんて、初めてだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

remember anotherstory【蓮⑧】

舞香の誕生日を祝いに行った次の日、僕は落ち込んだ気分のまま学校の授業を終えて、そのままアルバイトに行った。

 

その日は忙しくて、閉店時間を過ぎても片付けが終わらず、終電ギリギリに電車に乗って帰ったけど、駅から家までのバスはもう終わっていた。

そんな時は、亮太に頼んで迎えに来てもらうけど、今日は電話をしても亮太は出なかった。

寝てしまったのかと思って、僕は諦めて歩き出す。

 

歩いても20分ほどだから、疲れてさえいなければ良かったけど、今日はずっと忙しかったからなかなか家までたどり着けない気がした。

 

もう着くというところで亮太から折り返しの電話があったけど「もう着くから大丈夫」と言った。

 

「ただいま」

「おかえり、ごめん電話気づかなくて」

「ううん、俺こそいつもごめん」

「お風呂入って来な、疲れたでしょ?」

「うん…」

 

なんだろう。

 

帰った時は気づかなかったけど、お風呂に入って部屋に戻ると少し、部屋に違和感があった。

 

亮太のいつもの柑橘系の香水の匂いに混じって、いつもと違う、それでも嗅いだことのあるような匂いがした。

 

「何?どうした?」

 

「誰か来た?」

 

「来てないよ?なんで?」

 

「ううん…気のせいかも」

 

亮太はそれ以上は追求せず、テレビを消して「もう先に寝るね」と言って寝室に向かった。

 

「蓮ももう寝る?」と聞いたから、「うん、もう疲れた」と言ってリビングの電気を消して一緒について行った。

 

なんだか、さっきの変な違和感に何故か不安になって亮太にくっつくと「なに?疲れてんじゃないの?」と亮太が笑って、乾ききっていない髪をくしゃくしゃと撫でて、両腕で頭を包み込んだ。

僕が自分の手を背中に回して抱きつくと、亮太は僕のその背中に回した手をほどいて身体を起こし、僕の顔を撫でた。

 

「なに?くすぐったいよ」

 

僕がそう言うと、亮太は笑ってその手を顔から離して、しばらく宙に浮かせたその手を今度は首にかけた。

 

そして、顔をうつむき加減にして、そのまま力を入れて僕の喉に指をくい込ませた。

 

ほんの数秒だったけど、強い力で喉を押さえられて、苦しくて声も出なくて、僕は思わずその手を掴んだ。苦しさのあまり爪が亮太の腕に食い込んだ時、やっと亮太が顔をあげて我に返ったように手を離した。

 

急に息が吸えて咳き込むと、亮太は動揺した声で「ごめん…ごめん、蓮…」と言って背中をさする。

 

「なに?どうしたの?怖いよ…」

 

「ごめん…」

 

「やっぱり、なんかあった?変だよ、亮太」

 

「なんでもない、ごめん…本当に」

 

そしてそのまま、亮太は背を向けて黙り込んでしまった。

僕は、首を絞められて怖かったというより、亮太が心配で仕方がなかったけど、亮太はそれきり何も言ってくれなかった。

 

寝たふりをしてるだけで、眠れていないのもわかっていた。

 

朝になって、亮太は「昨日はごめん」と僕を抱きしめた。そして、昨日僕の首を絞めた時とは別人のように、優しく僕を抱いて何度も「蓮、好きだよ」と言った。

 

やっぱり…何かがおかしいと思ったけど、確信出来る理由がなくて、早くいつもの亮太に戻って欲しいと願うだけだった。

 

「亮太、もう起きないと遅れるよ」

「蓮は?今日は学校?」

「今日は何もないから、掃除でもしとく」

「まぁ、適当でいいよ」

 

仕事に行く亮太を見送った時には、いつもと何も変わらなかった。

 

「いってくるね」

 

また、変わらずいつものように亮太が帰ってくるのを疑わずに、背を向ける亮太に僕は手を振った。

 

 

 

亮太を見送り、部屋を片付けていると玄関のチャイムが鳴った。

亮太を訪ねて来る人なら、僕が出てもわからないからインターホンのモニターを見てみる。

 

「え…なんで?」

 

モニターに映っていたのは、僕の両親だった。

 

躊躇いながらドアを開ける。

 

「来ないでって言ったじゃん」

 

僕が不機嫌に言うのに被せるように「蓮、早く帰るぞ」と父が部屋に勢いよく入ってきて言った。

 

「は?なに言ってんの?前に話したよね?帰らないって」

 

「聞いてないのか」

 

「何が?なんの話?」

 

「昨日、あいつとは話をつけたから帰って来なさい」

 

父の言う意味が、僕には全くわからなかった。

 

 

 

言葉が足りない父の代わりに、母が僕の手を取って話した。

 

昨日の朝、僕が学校に行った後、父と母はここに来たと言った。

ここに来て、僕より少し遅れて仕事に行く前の亮太に会って話をしたんだと。

 

昨日の部屋の違和感、嗅いだことのあるような匂いはそうだったのかと気づく。

 

「は?なんでそんなとこしたの?なんて話したの?」

 

母は、言いにくそうに父が亮太に話したことを言った。

 

息子を騙すなと。

 

息子をたぶらかすなと。

 

拐かすなと。

 

息子を返せと。

 

「たぶらかすってなんだよ!」僕は母の手を振りほどいて、父の胸元を掴んだ。

その勢いで、父が亮太の本棚に肩をぶつけ、亮太の本が床に何冊も落ちた。

 

「たぶらかされてなんかいないってば!俺が亮太のこと好きで一緒にいるのになんでそんなこと言ったんだよ!」

 

「一時の気の迷いだ!」父が意外にも大きな声を出したので、僕は少し手を弛めた。

 

「なんで?わかってくれようとしたじゃん…」

 

「わかるわけないだろう!」

 

「嫌だよ、俺は帰らないよ。あんた達がわかってくれないなら…」

 

親子でいられなくていい。

 

そう言いかけた時、父が言った。

 

「あいつは手切れ金も受け取ったぞ」

 

「なにそれ…そんなの持ってきたの?」

 

「お前を取り返すためなら仕方ない。あいつはそれを受け取った」

 

僕は、身体中の力が全部抜けて、その場に座り込んだ。

親がそんなものを用意して来たこともショックだったし、亮太がそれを受け取ったことも信じられなかった。

僕は少なからず、もう少し親が僕を理解してくれるつもりでいると信じていたし、まさか金なんかで解決しようとするとは思っていなかった。

そして、亮太を傷つけたことも許せなかったけど、亮太がその金を受け取ったというのは、僕が捨てられたということだとわかった。

 

母が、僕の傍に来て「お父さんの言ってることは本当だから、もう帰って来なさい」と言った。

 

帰りたくはなかったけど、もうここにはいられないのもわかっていた。

 

だから僕は、親の前なのに泣きながら自分の荷物を集めて、カバンに詰めた。元々、そんなに自分の持ってきた荷物は多くなかったから、そんなに時間はかからなかった。

 

部屋を出る頃には、泣き疲れて、僕は家に帰るまで一言も話さなかったし、話すつもりもなかった。

 

あんなに幸せだった日々の終わりは、あまりに呆気なかった。

 

家に帰ると、このことを知っていたんだろう、姉が来ていて、僕たちを出迎えた。僕は姉の存在を無視して、そのまま自分の部屋に入って鍵をかけた。

子供たちの声が聞こえたけど、僕は触れるなとまで言われたから、知らないふりをした。

 

部屋は、僕が帰ってくることを見越して空気が入れ替えられて、掃除もされていた。

 

荷物を整理する気にもなれず、僕はそのまま数日部屋に引きこもった。

必要以上は部屋から出なかったし、その必要最低限の時も家族に会わない時間を選んだ。

父と母は、仕方がないと、そのうち機嫌が直るだろうと楽観視しているようだった。

ただ、姉は毎日のようにこの家に来ては、僕の様子を見に来た。

 

僕はドアの向こうの呼び掛けに返事をする気にもならなかったけど、あまりに毎日しつこかったから、少しだけドアを開けて「うるさいよ、俺みたいな気持ち悪いやつにかまうなよ」と言った。

姉は「ごめん…本当にごめん…」と、珍しく弱ったような顔で言った。

「どうでもいいよ、もう」

姉を廊下側に押して、僕はまたドアを閉めた。

 

それでも、ずっとこうしているわけにはいかなくて、僕の携帯には心配した康平から着信が何度もあった。

 

「どうした?蓮」

「康平…」

 

友達の声に安心して、ついまた泣き出してしまう。

 

「何があった?俺には話せない?」

 

半ば、ヤケになっていたと思う。

 

どうせ、失うなら全部失ってしまえと思ったんだと思う。

 

僕の話を聞いて康平はすぐに「そっか、辛かったな」と言った。

そして「別にお前を見る目なんて変わんないよ、そんなの関係ないじゃん」と笑った。

 

「つまんないから、早く学校来いよ」

 

康平のおかげで、少しは動く気になれて、とりあえず持って帰ってきた荷物から、いつも学校に持っていくカバンを取り出した。

財布を捜そうとして、ポケットを探っていると、覚えのない折りたたまれた白い封筒がこぼれ落ちた。

 

拾い上げると、少し厚みがあって糊でしっかりと封をされていて、部屋の電気に透かしてみて、僕は息を飲んだ。

驚きすぎて、一瞬だけ息の吸い方を忘れるくらいだった。

 

僕はそれを握りしめて部屋を飛び出し、居間にいた母の前に叩きつけた。

 

「なんだよ…これ…」

 

母も、それを見てハッとした顔をする。

 

「お前らが亮太に渡した金ってこれかよ…」

 

「どこで見つけたの…」

 

「受け取ってなんかいないじゃないか!!無理やり押し付けて帰ってきたんだろ?最低じゃないか!」

 

両親にも腹が立って仕方がなかったけど、それよりも自分に腹が立った。自分に怒りしかなかった。

 

どうして、僕は亮太のことを信じてやれなかったんだろう。

 

こんなものと僕を引き換えにするような人だなんて、一瞬でも思ってしまった自分が悔しい。

どんな気持ちでこれを受け取らされて、そして黙って僕のカバンに返したんだろう。

 

あの日、どんな気持ちで、最後に僕を抱いたのだろう。

 

そして、僕のいない部屋に帰って、何を思ったんだろう。

 

胸が張り裂けそうだと言うけど、もうこのまま本当に張り裂けて死んでしまえばいいとすら思えた。

 

僕は、今持てるだけの荷物を持って家を飛び出して、亮太の家に向かった。電話をかけてみるけど、電源も入っていなくて、不安ばかりが募った。

息を切らせて、焦って鍵が入らなくて、時間がかかる。

 

部屋に入ると、空気がこもっていて、人の住む気配がなかった。

あの時、父が本棚にぶつかって落ちた本はそのままで、それでも亮太が仕事から帰ってきて脱いだネクタイと白いシャツが無造作に放り投げられていた。

亮太はわりと神経質な性格だったから、こんなふうに無造作に脱ぎ散らかすことなんて今まで無かった。もちろん、落ちた本を戻さないなんてことも有り得ない。

 

亮太がここで暮らしていないことは、明らかだった。亮太のいつもの香水の匂いももう消えていた。

 

僕があの時、亮太を信じてここに残っていればと後悔するだけだ。

 

どこへ行ってしまったんだろう。

 

こんなに、なんの準備もせずに、何も持たずにどこへ消えたんだろう。

 

僕には、なんの手がかりもない。

 

その日は、微かな可能性だけを信じて、僕はその部屋で眠らないで亮太が帰って来るのを待った。

 

喧嘩をして、飛び出した時に亮太が眠らないで待ってくれていた時みたいに。

 

何度考えてもわからない。

 

亮太は、なんで僕の首を絞めたりしたんだろう。

 

僕の父に罵倒されて、憎しみのあまりなんだろうか。

 

僕を殺したいくらい憎んだんだろうか。

 

だったら、その後はどうするつもりだったんだろう。

 

もしかして自分も、死のうとしたんだろうか。

 

だったら、もう亮太は生きていないかも知れない。

 

もし、亮太が生きていなかったら、僕もすぐに死んで追いつこう。

 

そう考えていた。

 

結局、予想通り亮太は帰っては来なかった。

 

康平から電話があって「話を聞いてやるからとにかく外に出ろ」と言うから、僕は久しぶりに学校に行った。

 

そうはいっても、康平も本当に受け入れてくれているのか疑問ではあった。両親のように理解したふりをしているだけ、取り繕っているだけなんじゃないのかと疑っていた。

 

なのに、久しぶりに会った康平はいつもと1ミリも変わらなかった。

 

「お前、顔パンパンじゃん…そんなブスだっけ」と笑った。

 

「そっか…いなくなっちゃったのか」

 

「うん…どこに行ったのか見当もつかないし、もしかしたら死んじゃってるんじゃないかとか思って…」

 

「まぁ…可能性はあるよなぁ…でもさぁ、お前に嫌われたくはなかったんだね」

 

「なんで?」

 

「お前のカバンに金を返したのは、受け取らなかったって伝えたかったんだろ?」

 

「俺、最悪だよね。なんで親の言うこと真に受けて疑ったんだろ…」

 

「そりゃ仕方ないだろ、俺たちはまだ親のスネかじって生きてる身分なんだからさ…ていうか働いてるとこ知らないの?」

 

「知ってるけど…」

 

「そこしかもうアテはないじゃん、ダメ元で行ってみたら?一緒に行ってやろうか?」

 

「ううん…大丈夫。行ってみる…」

 

 

 

亮太の働いている職場は、バイト先の近くだったから捜せばすぐにわかったけど、なんて聞けばいいのかとか、どう説明すればいいのかとか、ずっと勇気が出なくて行くのを躊躇っていた。

 

駅から少し出たところの高いビルの1階から3階までが亮太の働いている職場になっていて、僕はドアの前で深呼吸した。

 

ドアを開けて中に入ると、その気配に気づいて女の人がひとり立ち上がってこちらに近づいて来てくれた。

 

優しそうな笑顔に少しホッとしたけど、やっぱりちょっと緊張して恐る恐る「神野亮太さん…いますか?」と聞いた。

 

すると、その人は少し眉をひそめて困ったような顔で「神野は今、休んでいるんですけど…なんの御用ですか?」と言った。

 

「あの…休みって…いつまでですか?今、何処にいるかとかわかりますか?」

 

その女の人は、僕の問いに困ってしまって後ろを振り向くと、それに気づいた上司らしき男の人がこちらに来て「申し訳ないんですけどね、社員の個人情報はお話出来ないので…」と言った。

 

ここで、諦めて帰ってしまったら、もう手がかりは全部なくなってしまう。

 

でも、それ以上は取り付く島もなくて、粘る方法もなくて

 

「すみません…ありがとうございました…」そう言って、僕は諦めて外に出た。