われても末に逢はむとぞ思ふ④
それから、僕はずっと本当に平凡に普通に生きてきたけど、高校生時代のことはなんとなく心の何処かでトラウマのようになっていて、思い返したくはなかった。
卒業アルバムも、一度も開かないで押し入れに仕舞い混んだ。
でもそのトラウマは消えることなく、僕にまた嫌な記憶を思い返させようとしていた。
僕は、10年振りに渉と偶然再会する。
それは終電近くの仕事帰り、歓送迎会で賑わう春の繁華街の夜道。ひとり歩いていると、目の前にすぐそこの居酒屋から出てきたであろうサラリーマン風の団体が集まって楽しそうに話し込んでいた。
僕はそれを避けようとしたけど、その中のひとりの酔っ払った女がふらっと千鳥足で歩み出てきて僕の肩にぶつかった。
自分でも少し怖い顔をして、その女を睨んだような気がした。
すると、その仲間のひとりがその女の腕を引っ張って「すみません」と僕に言った。
「いや…いいですけど…」
顔をあげて、一瞬はわからなかった。
「航平?」
名前を呼ばれて、確信する。
「渉」
「久しぶり」
そう言って笑った渉の表情と声は、あの時よりずっと柔らかくて穏やかそうで、名前を呼ばれなかったら気づかないくらいだった。
「知り合い?」
周りからそう聞かれて渉は「幼なじみ」と答えて「俺、こいつと話したいからみんなで行ってて」と、その集団から離れた。
笑顔でみんなに手を振って、その姿が見えなくなると急に真顔になって僕を見上げた。
「航平、元気だった?」
「まぁ…普通だよ」
「そっか。今、帰るとこ?電車?」
「うん…間に合うかどうかわかんないけど」
「あ、そっか。呼び止めて悪かったな」
「いや、いいよ。ダメ元だったし。渉は?」
「俺、車で来てるから。送ってってやるよ」
「飲み会あったのに車?」
「飲まない口実だよ。どうする?乗ってく?それとも…俺と2人になるのは怖いか?」
さっきまで、みんなと一緒にいた時の柔らかくて穏やかな笑みは消えて、上目遣いで口角だけをあげて、挑発するような笑顔で渉は言った。
僕が返す言葉を無くしたのを見て、声をあげて笑って「いいから来いよ」と先を歩き出す。
「終電、もうないんじゃない?」
癖になっているのか、渉の傷めた足を庇うような、少し重心のズレた歩き方は変わっていなかった。
「足は?」
「足?」
「もう痛くないの?」
「全然」
短い会話を交わしながら、車を走らせる渉の横顔を見ていると、何も変わっていないような気もしたし、別人のような気もした。
さっきまでの職場の仲間たちに見せていた大人びた優しそうな笑顔と、僕に見せる思春期の少年のようなに、はにかむような、それでいて挑発するような、人を見下すような伏し目がちな笑顔。今の渉の真実はどちらなのか、戸惑ってしまっている。
「航平は一人暮らし?」
「そうだよ」
「結婚とかしてないの?」
「してない」
「なんで?」
「別に…理由はないけど」
結婚願望があるとか、ないとか気にしたことはなかったけど、なんとなくだ。
そこまでの相手に出会えなかった。簡単に言うとそういうことだと思っている。
「渉は?」
「俺はしてるよ」
「え?マジで?」
「なんだよ、失礼だな」
「ごめん」
その会話は、僕の警戒心を緩めるには充分だった。
もう渉は、僕のことなんかなんとも思っていないと、さっきまでの緊張が顔から取れていくのがわかった。
気が緩んだ。
ただ、少し懐かしくなって
ただ、もう少し話したくなって
僕が渉を部屋に招き入れてしまったことは、もしかしたらそれも最初から、渉の筋書きにあったのかも知れない。それに気づいたのは、冷たい床に押し付けられて、渉の生ぬるい舌が僕の口を塞いだ時だった。
「油断しただろ」
渉は僕に顔を近づけたまま、そう言ってニヤッと笑う。
「やめろよ…」
「もっと抵抗していいよ、その方がゾクッとする」
渉を引き剥がそうとする僕の手首を掴んで、渉は少し捻ってみせる。そして、僕の痛そうにする顔を見て更に嬉しそうに笑う。
昔から、僕より身体の小さい渉の方が何故か力が強かった。
そしてその左手の薬指には、細めのシルバーの指輪がしっかりと巻きついている。
あの時と同じように
渉の頭が下に下がるのを止めようと手を伸ばすと、渉はそれを掴んで自分の頬に置いた。
嫌悪感とは裏腹に、頭の芯が痺れるように快感に襲われて、気持ちと身体の反応のズレに、腹ただしくなる。
「渉…」
思わず、無意識に名前を呼んだ。
「航平…気持ちいいの?」
渉は、上目遣いで嬉しそうに笑った。