われても末に逢はむとぞ思ふ②
その翌日、教室で会った渉はいつもと変わらなかった。
僕の方を向きもしないで、いつもの仲間といつのように教室の後ろの席で笑っていた。
「うるさいな、あいつら」
「聞こえるよ、やめろよ」
僕の隣の席の川田が、登校して席に着くなり僕に向かって渉たちを見て言った。
川田も僕と同じバレー部で、真面目で頑固な性格故に、厳しい練習でも試合に負けた後でも明るく笑っていられる渉のことを、不真面目だと前から嫌っていた。
僕にとっては、渉のそれは士気の下がった仲間を鼓舞するためのものだとわかっていたし、実際は渉だって陰で努力していたし泣いていることも知っていた。
でも、それが理解できない人間もいるということだ。
「お前、今うるさいって言った?」渉の隣にいた間宮が川田に向かって言った。間宮は、渉と一番仲が良いが、一番喧嘩っ早くて面倒なやつだ。
僕は「ほら見ろ」とため息を着く。
「うるさいからうるさいって言ったんだよ」
「はあ?」
間宮が川田に歩み寄って、今にも掴みかかりそうになる。川田も負けじと間宮を見下ろす。
「やめろって」
一瞬、静かになった教室に渉の声が響いた。
「間宮、お前うるさいもん」と、いつものようにニカッと笑って歩み寄り、間宮の肩を抱いて川田から引き離す。
「ごめんね、川田。こいつアホだから」
川田は、渉に助けて貰ってにも関わらずそれを無視して舌打ちしながら席に座った。
その時、呼び出しの校内放送が入り、それは渉の名前を呼んだ。
「何やったんだよ、渉ー」
間宮たちが渉を茶化してまた騒ぎ初めたから、僕はまた川田が何か言い出さないかとハラハラして川田の顔を伺っていた。
渉は口の前で人差し指を立てて、「なんもしてないよ」と言って教室を出ていったけど、ようやく帰ってきたのは昼の休み時間が始まる頃だった。
「渉、どうした?」間宮たちがさすがに心配になって教室に帰ってきた渉に真剣な顔をして聞く。
「あーなんか、停学なんだって」
なんていうことない風にあっさりとそう言って、机に置いたカバンを肩にかけた。
「は?なんで?マジで何やったの、お前」
「知らねえ」
「知らねえってなんだよ」
間宮の問いに答えず教室を出た渉を間宮は追って行ったけど、僕はただそれを眺めるだけだった。
何があったんだろうと思ってはいたけど、今の渉なら何か問題を起こしたとしても不思議でもない。
間宮はその日、教室には戻らなかった。
「なぁ、渉何したと思う?」
部活の練習が終わって、体育館の裏の水道で顔を洗っているところに川田が現れて同じように顔を洗いながらそう言った。
「知るかよ」
「3年の伊村って知ってるだろ?」
「…伊村…あぁ、もちろん知ってる」
伊村は、渉に怪我をさせた張本人だから嫌でも知っているし覚えている。あの時、階段の手すりにしがみつきながら渉が落ちていくのを見ていた顔も、渉のカバンをつかんだ手の浮き出た血管すら今でもはっきり思い出せるくらいだ。
そして、渉を助けもせずに逃げ出した後ろ姿も。
「昨日の放課後、その伊村が階段から落ちて大怪我したんだってさ」
一瞬、川田の言葉の真意がわからなかった。
「…それ、渉がやったって言いたいの?」
「みんなそう言ってんだってさ」
「今さら、そんな仕返しみたいなことするかよ」
「まぁね、今更だよな…ま、本当かどうかわかんないらしいけど、それが本当だったら停学じゃ済まないからな。真相がわかるまでは執行猶予ってことだろ」
「バカバカしい」
渉が伊村を恨んでないとは言い難い。
いや、恨んではいるだろう。
不可抗力とはいえ、助けたからといってどうにもならなかったけど、結果的に自分から大切なものを奪っておいて、逃げ出したやつのことを許せなくて当然だろう。
だけど、もうずいぶん前の話だ。
仕返ししようというならもうとっくにやってるだろうし、そんなことをしてどうなるなんてわからないような馬鹿じゃない。
「変な噂ひろめんなよ」
僕がそう言うと川田は不服そうな顔をして「お前まだ友達だと思ってんの?もう関わるなよ」と吐き捨てた。
「ていうか…お前に関係ないじゃん」
友達だと思ってて悪いかよ。
濡れた前髪を力いっぱいタオルで拭って、まだ何か言いたそうな川田を無視してその場を後にした。
もし、渉が本当にそんなことをしたんだとしたら、昨日あんな風にひとりで何を思って海を眺めていたんだろう。
どう考えても、恨みを晴らして胸のつかえが取れたような顔には思えなかった。
バス停を降りて、渉と会った場所を通ったけどもちろんそこにいるわけはなくて、僕はしばらく渉と別れた場所に立って、会いに行くべきかどうか迷った。
本当にお前がやったのかって、聞いてどうするんだ。
やったと言ったら?
やってないと言ったら?
僕に何が出来ると言うんだろう。
それでも僕の足は、渉の家の方向へ向かった。
「何しに来たんだよ」
渉は制服姿のまま、家の庭でしゃがみこんでいた。
「何してんの?」
「草むしりさせられてんの」
「母ちゃんに怒られたからか」
「当たり前だろ、怒らない母ちゃんいるかよ。膝痛えって言ってんのに鬼だわ」
小さい声で「よいしょ」と言って立ち上がった渉は足でむしった草の束を端に寄せて、手についた土をパンパンと払った。
「渉!終わったの!?」
渉の家のリビングの大きな窓が開いて、渉の母親が眉間に深いシワを刻んだ顔を覗かせる。けど、僕の顔をしばらく目を細めて眺め、ハッとして笑顔に変わる。
僕が軽く会釈すると「航平くん、久しぶり」と本当に嬉しそうに手を振ってくれた。
渉は呆れたみたいに大きくため息をついて「とりあえず入る?」と背中を向けて、玄関のドアを開けた。雑にサンダルを脱ぎ捨てて、玄関からまっすぐ上がる階段を先に上っていく。
階段の上のすぐ傍の部屋に入ると、開いていた窓から涼しい風が吹き込んでいた。
何もない部屋だと思った。
勉強机と、ベッドと、テレビとゲーム。
特にこれといって趣味もなく、何にも興味もないという部屋だ。
ベッドの上のクッションを僕に投げて「勝手に座れ」と言って、渉は勉強机の椅子に勢いよく座って足を組んだ。
「俺やってないよ」
僕が聞く前に、渉は床に座る僕を見下ろして言った。
「じゃ、なんでだよ」
「知らねーよ、伊村が俺に落とされたって言ってんだってさ」
あの時、伊村は渉を助けずに逃げたけど、それで知らないふりを通せる訳もなかったから、先生たちもそのことをよく知っているし、伊村が渉にやられたと言ったのも納得出来たんだろう。
「それで?伊村の言うこと鵜呑みにされたわけじゃないよな?」
「そう。だから、はっきりするまでお休みしてなさいってさ。でも完全に疑ってるよね、これ」
「日頃の行いが悪いからだ」
僕のその言葉に、てっきり強く言い返すと思っていたのに、渉は口を尖らせて黙った。
「お母さんは?なんて言ってんの?」
「やってないって言ったし、信じるとは言ってる」
「それなら良かったじゃん」
「でも、お前と同じこと言った。日頃の行いが悪いからだってさ」
「俺も信じるよ」
口を尖らせたまま、渉は僕の目を一瞬だけ見て、椅子をくるっと回して背中を向けて「泣かしに来たのかよ」と小さな声で言った。
「そういえば間宮来た?」
「あーなんか追いかけて来たけど走って撒いた。うるせーもん」
「あいつカバン置いてったけどどうすんの」
「馬鹿だな、ほんとあいつ」
やっと渉が笑ったから、僕も安心して「じゃ、帰るわ」と立ち上がる。
「…ありがとう」
「なにが」
「気にしてくれて」
「当たり前だろ。じゃーな」
階段を降りていくと、待ち構えていたかのように渉のお母さんがリビングから顔を出して「もう帰るの?」と言った。
「また来ます」
「航平くんはまだバレーやってるの?」
「まぁ…一応…」
「あの子、辞めちゃってから学校の話とかも全然してくれなくて。前はうるさいくらいだったのにね。航平くん、仲良くしてあげてね」
「…はい」
小学生の頃、僕たちのチームの練習や試合を他の保護者の誰よりもサポートして応援してくれていたのは渉のお母さんだった。
元気で明るくて、一番声が大きくて、渉はお母さんに似たんだなと思っていた。
そんなことを思い出していたら、無性に寂しくなった。
無性に寂しくなって
渉に腹が立った。
何をやさぐれてるんだ、あいつは。
「ちょっと…忘れ物…」僕はそう言って、降りてきた階段を駆け上る。
力いっぱいドアを開けると、机の椅子にまだ座って背を向けていた渉がビクッとして振り向いた。
「なに…」
僕は渉のシャツの胸をつかんで、椅子から引きずり下ろす。そのまま渉を床に押し付けると、渉はその僕の手を掴んで引き離そうともがく。
「なんだよ!!!」
「お前さぁ!いい加減にしろよ!!!いつまですねてんだよ!!!」
「離せよ!」
渉に蹴られて、シャツを掴んでいた手が離れて僕は仰向けに倒れた。そして今度は、渉が僕の胸の上に馬乗りになる。
「なんだよ!お前に何がわかるんだよ!俺が辞めたのは怪我したからじゃねーんだよ!」
は?
どういうこと?
そう言いたかったけど、声は出ていなかったと思う。
「辞めたかったから!わざと落ちたんだよ!」
「…どういうこと…?」
やっと、絞り出すような声が出て、渉は僕の胸元を掴んでいた手の力を弛めて、深呼吸をして自分を落ち着かせようともう片方の手を自分の胸に当てた。
「本当は…あの時ちゃんと踏ん張れたんだ…」